「実篤ウィルス」は生きている

以下は友人と電話をしていてどちらからともなく言い出したことであり、決してオレの独創ではないのを、最初に断っておく。
武者小路実篤はほとんど日本語としての体をなしていない文章を書きまくり、最晩年にいたっておそらくは認知症のためか、前衛文学まがいのものを書くにいたった。高橋源一郎はこの事実にかなりの衝撃を受けたようで、何冊もの文学論で「実篤ウィルス」について言及している(以下、高橋の文も武者小路の文も、高橋源一郎『文学なんかこわくない』からの引用)。
「実篤ウィルス」の実例としては、次のようなものがある。

 私は人間に生れて
 今日まで生きた
 私が生きたのは
 不思議ではあるが
 この世には
 不思議に生まれたひとばかり
 生きている
 生れた事も不思議だが
 生きている事も不思議だ
 皆生きている人ばかり
 そしてそれが
 あたりまい(ママ)だと思っている

 いい事がしたい。喜んで生きてゆきたい。皆と仲良く生きてゆきたい。そして喜んで皆と仲良く生きてゆきたい。
 いい人が実に多く、生きてゆく事は嬉しい。僕は人間は皆、喜んで生きてゆく事がうれしく、そうありたいものだと思う。

非常に困る。大変に困る。「この世には/不思議に生まれたひとばかり/生きている」と言われても、死んだひとはあの世に行くのだから、不思議でも何でもない。現代国語の問題よろしく「この作者の主張を30字以内に述べよ」といわれても、「ひとはみな善人である」「生きるのは素晴らしい」の10文字で済んでしまい、それよりも長くは書けない。すなわちその程度の思想しか持っていない。おまけに主述の関係が混乱しているので、英語やフランス語に翻訳できそうにない。武者小路は仲間内では「傑作を書かない大作家」などと揶揄されていたそうだが、それもむべなるかな。「感染すると顔色が悪くなって死にたくなる」「太宰治ウィルス」や、「一九六〇年代後半から七〇年代前半の頃」には「強力な伝染力があったので」、「学級封鎖や学校閉鎖に追い込まれたところが非常に多かった」、「小林秀雄ウィルス」や「吉本隆明ウィルス」に較べると、その影響力はきわめて小さい(ように見える)。高橋源一郎がふと、「だが、わたしは気になるのだ。とうに滅びたはずの『実篤ウィルス』のことが」とつぶやきたくなるのも無理はない。
しかし高橋が気に病むことはないのだ。たしかに彼が属している狭義の文学の世界では、「実篤ウィルス」は絶滅したかもしれない。しかしまっとうな文芸批評家が批評の対象とせず、まっとうな国文科の学生が卒論の題材に選ばない(選ぼうとしても指導教官に止められる、たぶん)、文学のようでいて文学ではないジャンルでは、「実篤ウィルス」はいまもって健在である。ほら、あるではないか、上手とも下手とも付かないイラストの上に、決して達筆とは言いがたい文字で、田村隆一谷川雁の書くものが詩だと思っている者は決して詩だとは認めないが、それでもやはり詩に分類せざるをえない文章が印刷されている画文集、要するに「仲良き事は美しき哉」の現代版、これらこそが「実篤ウィルス」の嫡子ではあるまいか。ぜんぜん絶滅していない。絶滅どころか、「吉本隆明ウィルス」や「太宰治ウィルス」の感染者の著作よりも、より大きな経済的利益を出版社にもたらしているかもしれない。
ちなみに高橋源一郎は「実篤ウィルス」の特徴を次のようにまとめている。

  1. 成長が止まる
  2. 自分がどのジャンルに属しているのか気にならなくなる
  3. 自分が何なのか気にならなくなる
  4. 性善説になる

ほら、あいつらこそがやはり「実篤ウィルス」の重度の感染者ではないか。しかもこれは治療しないほうが作者も読者も出版社も幸せなのだから、始末に終えない。「人間万歳!」

文学なんかこわくない

文学なんかこわくない