知性と痩身

MSNメッセンジャーで知人と会話していたら、「あなたは他人や自分(特に自分)の体重にこだわりすぎだ」と指摘される。毎晩、入浴したあとで体重計に乗り、体重が61キロ、体脂肪率が17パーセントを超えるとげげげと驚き、原因を考え、翌日からは生活習慣に少し変化を付け、理想の数値に戻ると元通りの大食漢となる。しかもこうした状況をTwitterで報告しているのだから、始末に終えない。あと8キロ太っても標準体重とまったく同じなのにこんなことを繰り返す理由は、要するにロラン・バルトと同じである。
彼は1975年2月17日に放送されたラジオのインタビューで、次のように発言にしている。出典はルイ=ジャン・カルヴェ『ロラン・バルト伝』(ISBN:4622045664)、訳文は花輪光による。

これはおしゃれの問題かもしれませんが、しかしまた知的でありたいということでもあります。やせた人、細い人、すらりとした人は、太った人よりも知的なのです。

若いころのバルトは長身痩躯だった。これは『彼自身によるロラン・バルト』の巻頭の何枚かの写真で確認できる。なおこの本で彼は高校生のころの自分の写真の上に、「知的さという想像力の産物、それは痩せている(ように見える)のは、知的でありたいという欲望による素朴な行為なのだ」と書いている。しかし結核を病み、サナトリウムでの療養生活を終えてからは急に太りやすい体質になり、おまけに美食家だったので、突発的なダイエットとリバウンドを繰り返していたのは、上の伝記に書かれている。
今日の日記の右上に掲載しているのは、Googleイメージ検索で見付けたバルトの写真。たしかに肥満気味だが、「知性に乏しい」「頭が悪そう」という印象を持つひとは少ないだろう。
明治生まれの知識人や文学者は最晩年まで痩せていたひとが多い。太っていたのは武者小路実篤くらいではないのか。しかし戦後生まれとなると、一気に太ったひとが増える。いま40歳以下で、それなりに名前と顔が知られている大学教師や文学者で、福田恆存のように痩せこけたひとはあまりいないのではないか。岡田斗司夫は痩せたからといって、以前よりも知的になったかというと、大して変わらない気がする。これはオレが彼の活動に、まったく興味がないからかもしれないが。
ああ。「体重にこだわりすぎ」と指摘されて反省したのに、こんなに長い文章を書いてしまった。オレが書きたかったのは、いまの日本でも知性と痩身を結び付けるひとがどれだけいるかということだ。あと背が高くて痩せていて、おまけに眼鏡までかけていると、意外と損をする(たとえば何も考えずに座っているだけなのに、「偉そうにしやがって」と勘違いされる)のも附言する。