いただいた本と注文した本

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

ポケットマネーで買ったあと、著者もしくは担当編集者から献本されるという、一般的には珍しいが出版関係者にとってはよくあるパターンで、同じ本を2冊持っているひとからいただく。ありがとう。
いまジャンルを問わずに日本の小説家でいまいちばん注目に値する仕事をしているのは女性なら笙野頼子、男性なら奥泉光だと思う。どちらも同い年で今年で52歳。作家としては「丸くなる」年齢だが、専業作家として本格的に活躍しはじめたのが遅いので(笙野は1991年、奥泉は1990年から)ので、いまでも実験的な野心作を書けるのだろう。そういえばこのふたりよりもさらに専業作家となった時期が遅い大岡昇平も、52歳前後のころがもっとも論争的であった。
しかし読み掛けの本が10冊、そのうちの半分以上を読み終えたら取り掛かりたい本が5冊もある身なので、いつになったらこれを読めるのだろう。
と、最初のページからいきなり惹き込まれたので、これを優先させることにいま決めた。でも三部作の最終巻なのだよな、これ。一応はそれぞれが独立した作品として読めるようなのだが、備忘録として第一作と第二作にもリンクする。
だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

以下はbk1で注文。
家族八景 上巻 (KADOKAWA CHARGE COMICS 16-1)

家族八景 上巻 (KADOKAWA CHARGE COMICS 16-1)

家族八景 下巻 (KADOKAWA CHARGE COMICS 16-2)

家族八景 下巻 (KADOKAWA CHARGE COMICS 16-2)

筒井康隆の漫画化や映画化は失敗することのが多いのだが、『家族八景』を清原なつのが手掛けるのなら期待できそう。抒情的な作風で心理描写を得意とする女性漫画家のほうが、筒井作品を的確に映像化できるのではないか。たとえば『男たち描いた絵』を西田東よしながふみが手掛けるとか、吉野朔実向きの短篇もいくつかあったはずだ。
新装版 考えるヒント (文春文庫)

新装版 考えるヒント (文春文庫)

これは単に送料を無料にするために買ったもの。小林秀雄の講演は面白いという話を聞いたことがあるのだが、iTunes Storeあたりで配信していないだろうか。
かくして東京に戻ってから3ヶ月にして、引越し当時はまだ実家から持ってきた本棚に余裕があったのに、オレは新しい本棚を買う必要に迫られてきたのであった。

ベルギー文学は存在するか

ヘタリア』(ISBN:4344812751)には名前は誰でも知っているが、なぜか登場しない国がある。それはオランダとベルギーである。ベルギーもオランダも文化や芸術の面では大きな業績を残している国だが、『ヘタリア』はおもに19世紀後半から20世紀の軍事と政治を扱ったもので、たしかに白蘭両国はこの分野ではそれほどの存在感を持っていない。登場しなくてもおかしくはないだろう。
と、ここまでは前置きにすぎす、本題はベルギー文学である。ベルギーには「ベルギー語」というものはなく、首都のブリュッセルより南ではフランス語、北ではオランダ語、ドイツとの国境付近のごく狭い地域ではドイツ語が使われている。あとフラマン語というオランダの方言(とされている)ものがあるが、これがどういう機会に誰が使っているのか、よく判らない。
またもや説明が長くなった。とにかくブリュッセルよりも南に生まれ育ったベルギー人は、フランス文学を原文で自由に読める。しかし生粋のベルギー人がフランス文学を大学で学ぼうとすると、たとえば在日コリアンや韓国人が日本文学を専攻するときと同じような両義的な感情を覚えるのではないか。何しろこの国は40年ほどフランスに占領され、フランスに併合された時期がある。まさに日本と韓国の関係に近い。
なお日本の大学にはオレの知るかぎり、ベルギー文学科は存在していない。ローデンバッハ(ローデンバック)やメーテルリンクメーテルランク)を学ぼうとしたら、フランス文学科に進学するしかない。それに岩波文庫でもローデンバック『死都ブリュージュ』(ISBN:4003257812)やメーテルランク『ペレアスとメリザンド』(ISBN:4003258312)はフランス文学として扱われている。こういう状況に疑問を持たない日本のフランス文学者はいないのかと疑問に感じてgoogle:ベルギー文学と検索したら、下の本を見付けた。

著者は1959年生まれで、目次を見るかぎりではカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムの洗礼を受けているようだ。読んでみたいが、高いし、いまのオレの主要関心事は日本語における正書法の問題にあるので、買うのをためらってしまう。

本日のオンライン注文

今回はどちらもbk1にて。

愛別外猫雑記 (河出文庫)

愛別外猫雑記 (河出文庫)

昨日の日記で作家と装幀の関係について書いたら、とある友人から「それなら笙野頼子とミルキイ・イソベの関係を調べなければならぬ」と電話で説教を喰らう。そのような理由で購入。「もっと本格的な作品を買え」と説教されそうだが、文庫だし、猫に関する話だし、決して笙野作品の熱心な読者ではないオレにはとっつきやすかったのだ。日本文学を高等教育機関で体系的に学んだことがないので(曲がりなりにも体系的に学んだのは、フランス語だけといってもいい)、オレの知識にはどうも抜けが多い。アシモフは『黒後家蜘蛛の会』シリーズで独学者特有の欠点を登場人物に語らせているが、オレのインターネットと日本文学に関する知識はその典型である。
ジオラマボーイ パノラマガール (Mag comics)

ジオラマボーイ パノラマガール (Mag comics)

これは送料を無料にするためについでに買ったようなもの。数ある岡崎京子作品からこれを選んだのは、まさに上記の友人が「彼女の作品なら、特にこれが気に入っている」とブログ書いているからである。オレには自分の意見などというものはない。

本日のオンライン注文

文壇論争術 (1962年)

文壇論争術 (1962年)

スーパー源氏より。
本文の生態学―漱石・鴎外・芥川

本文の生態学―漱石・鴎外・芥川

アマゾンのマーケットプレイスより。
あともう1冊、買うべき本があり、メモも控えたのだが、そのメモをどのファイルに控えたのかの思い出せない……

装幀と小説

オレンジ色の憎いやつ

たとえば日本の近代文学がそれなりに好きなひとなら、自宅の書棚に谷崎潤一郎太宰治三島由紀夫などの文庫本、とりわけ新潮文庫が並んでいるだろう。またどんな表紙なのかも思い出せるだろう。しかし装幀を手掛けたのが誰かと問われて、正確に答えられるひとがどれだけいるのか。オレにはできない。いまためしに新潮文庫の谷崎『乱菊物語』を手にしたが、表紙は加山又造であった。知らなかった。いや、知っていたかもしれないが、あまり重要な情報ではないと判断し、忘れたのだろう。右上の図版にもあるようにオレが高校生だった当時はいつくかの例外を除いて、新潮社装幀室が担当した装幀で統一されていた*1
あるいは哲学書であれば、新潮社から出ているミシェル・フーコーの著作の装幀は、ハードカヴァーは高松次郎である。これも一昨年まで知らなかった。『人間失格』の表紙に小畑健を起用するといったトリッキーな組み合わせでなければ(オレはさほどトリッキーだと思わなかったが)、すでに「名作」として文学史に登録されている作品の装幀を誰が手掛けようが、社会現象にはならない。
それではいままで名前を挙げたひとよりも少し世代が下で、大衆的な作風の作家はどうだろう。同じく新潮文庫なら星新一和田誠真鍋博小松左京真鍋博筒井康隆山藤章二真鍋博星新一和田誠真鍋博(真鍋、人気者だな)のように、作家と装幀家が強く結び付いている。また「『新青年』のころの探偵小説のイラストは、やっぱり松野一夫じゃなくちゃ」というマニアックな意見もある。さらにはハヤカワ・ミステリ文庫の表紙が真鍋博から安っぽいハーレクイン風になったときには、オレも含めて何人かの30歳以上の推理小説愛好家を嘆かせた。また新本格ブームをリアルタイムで知っているひとは、「新本格」と聞けば、辰巳四郎のイラストを思い出すであろう。
それではいま若い読書家に愛好されている小説ジャンル、ライトノベルはどうか。たとえば両者が決定的に不仲になるといったことがなければ、上遠野浩平の『ブギーポップ』シリーズのイラストは緒方剛志が担当しつづけるだろう。オレが新作を律儀に買い続けている唯一のライトノベルである野村美月”文学少女”シリーズには、イラストを担当した竹内美穂によるあとがきも載っている。イラストレーターのあとがきが載っている小説を読んだのは、これが生まれて初めてかも。オレが初老の男性になるころはライトノベルも公認された文化になるかもしれない。そしてそのとき、当時のイラストを忠実に復元した書籍は出版されるのだろうか。
もともとは「ライトノベルとそれ以外の小説を分けるのは内容の『文学性』などではなく、出版構造と流通形態の違いだ」と書きたかったのだが、あれこれ考えているうちに、まるで違う内容になった。だいたい上の話題は、すでに似たことを書いたはずだ。

*1:追記:図版を張り忘れていたので、あらためてアップロードした。

左翼の安売り

 国語審議会の連中はアカである。彼らが礼讃するのは、共産主義の国、中国の言語政策であり、その強力な政治力は彼等の羨望おく能わざるところである。中国がローマ字化に踏み切ったと聞いて感涙にむせび、連れ立って視察に出掛けたが、意外にも、毛沢東は試験的に漢字にローマ字のルビを振っただけだったので、大本営発表的な帰朝談の予定原稿は棚上げになった。

さてこの文章は誰はいつ書いたのであろうか。勿体を付けるのは趣味ではないのですぐに答えを書くが、これは大岡昇平が『新潮』1961年7月号でに載せた「国語審議会の連中は」という長文のエッセイである。六〇年安保、浅沼稲次郎暗殺、「風流夢譚」事件などで、「右翼は怖い」と誰もが思い、その反動として社会党共産党に好意や同情を寄せる者が多かった時期である。
あるいは同じ人物が書いた次のような文章はどうか。

(引用者中:広島への原子爆弾投下のニュースを知って)私の最初の反応が歓喜であったと書けば、人はわたしを非国民と呼ぶかもしれない。私はかねて現代物理学のファンであり、原子核内の諸現象に関する最近の研究に興味を持っていた。そしてコンミュニストがその精妙な理論を、資本主義第三期的頽廃と呼ぶのに気を悪くしていた。
(中略)
 しかし次の瞬間、私は無論わが国民がその事件の対象となったことを思ってぞっとした。親子爆弾どころの騒ぎではない。
八月十日

 極右のわが第三小隊長広田は嘆いた。
「あいつらが勝手のことを言って廻るのはかまわんが、若い連中がだんだん、もっともだという顔で聞いているのがたまらん。天皇様のことを悪く思ってくるのが、見ておれん。何や、綾野は投降兵やないか」
 私の同情はむしろ旧軍人の方に傾いた。いかにも民主グループのいうことは正しく合理的であるかもしれぬ。しかし現在様々の軍国的狂信を持ったままの俘虜としてして監禁されている我々のあいだで、一思想(引用者註:共産主義のこと)を宣伝しなければならぬ必要があるとは思われぬ。
新しき俘虜と古き俘虜

これらはいずれも『俘虜記』(ISBN:4101065012)に収められた作品である。前者は終戦直前、後者は終戦直後の出来事を描いたもので、いま流通している文庫本では隣り合って掲載されている。
「そうはいっても最晩年のエッセイや評論をまとめて没後すぐに刊行された『昭和末』(ISBN:4000026720)には1986年の『赤旗』に載せた文章があるではないか」と反論されるかもしれない。だがタイトルが「もっと攘夷の心をもって」、掲載日が8月15日で、みずから執筆したのではなく、談話をまとめたものであるのに注意しなければならない。それに当時は中曽根政権下で、大岡はことあるごとにこの総理大臣を批判してきた。「赤旗」編集部が「こんなときこそ大岡さんのコメントがほしい」と思ったのか、大岡が「こんなときは『赤旗』の取材に応じてもいいか」と思ったのか、どちらが正しいかは判然としないが、例外的な事態だったと考えられる。
小谷野敦が以前にみずからのはてなダイアリーで、「右翼と保守派は異なる。天皇への絶対的な忠誠心があるのが右翼で、何となく『いまの政治を変えないほうがいい』と思っているのが保守派」といったことを書いていたが(うろ覚え)、同じ意味で左翼と反体制派は異なる。マルクスエンゲルスの著作をまるで聖書のように扱っているのが左翼で、「いまの政治を変えたほうがいい」と主張するのが反体制派。だからこそ旧ソ連では膠着化した共産主義を批判した者が、「反体制派」とされたのだ。
ごくたまに活字メディアでもウェブ上でも大岡を「左翼文学者」として批判、あるいは礼讃するひとがいるので、かならずしもそうとは言い切れないことを指摘したいと以前か思っていたので、このような文章を書いた。反戦反核・反体制を唱えている人物をみな「左翼」呼ばわりするのは、あまりにも単純で乱暴な図式ではなかろうか。
オレは大岡昇平にも左翼にも一定の敬意を払っているからこそ、こうしたことを書きたくなった。諒とせられたい。

ひとは愛するものについて語ると、つねに挫折する

読了。“文学少女”シリーズは倫理的な理由から小説を「書かない」ことをみずからに課した少年が主人公なのだが、ここにきて何かを書かざるを得ない状況に追い込まれてきた。すなわち実質的な最終巻になる次巻で、語り手にはプルースト的な判断が要求される(と、冒頭の一行しか原文で読んだことがなく、井上究一郎訳を全巻所有しているがなかなか読む機会のない小説に唐突に言及する)。書いても書かなくても、すべてのファンを納得させるのは難しい気がするが、作者には何らかの目算はあるのだろうか。
この作者や友人知人も含めて、オレよりも3歳以上年下の作家や読書家は、大学院まで進んで文学研究をした者を除けば、いささか素朴な文学観を持っている気がする。これは1980年代の日本の文学や文芸批評がフランスに20年ほど遅れる恰好で、ひたすら難解になった状況に対する反動なのだろうか。
えーと、ISBN/ASINリンクでアクセスしたひとは「琴吹タン萌え〜」みたいな話題を求めていたのかもしれないのだが、そうはならずに申し訳ない。<>(だったと思うが、正確な引用ではない)というわけではなく、単にこういう風にしか読めないのだ。