装幀と小説

オレンジ色の憎いやつ

たとえば日本の近代文学がそれなりに好きなひとなら、自宅の書棚に谷崎潤一郎太宰治三島由紀夫などの文庫本、とりわけ新潮文庫が並んでいるだろう。またどんな表紙なのかも思い出せるだろう。しかし装幀を手掛けたのが誰かと問われて、正確に答えられるひとがどれだけいるのか。オレにはできない。いまためしに新潮文庫の谷崎『乱菊物語』を手にしたが、表紙は加山又造であった。知らなかった。いや、知っていたかもしれないが、あまり重要な情報ではないと判断し、忘れたのだろう。右上の図版にもあるようにオレが高校生だった当時はいつくかの例外を除いて、新潮社装幀室が担当した装幀で統一されていた*1
あるいは哲学書であれば、新潮社から出ているミシェル・フーコーの著作の装幀は、ハードカヴァーは高松次郎である。これも一昨年まで知らなかった。『人間失格』の表紙に小畑健を起用するといったトリッキーな組み合わせでなければ(オレはさほどトリッキーだと思わなかったが)、すでに「名作」として文学史に登録されている作品の装幀を誰が手掛けようが、社会現象にはならない。
それではいままで名前を挙げたひとよりも少し世代が下で、大衆的な作風の作家はどうだろう。同じく新潮文庫なら星新一和田誠真鍋博小松左京真鍋博筒井康隆山藤章二真鍋博星新一和田誠真鍋博(真鍋、人気者だな)のように、作家と装幀家が強く結び付いている。また「『新青年』のころの探偵小説のイラストは、やっぱり松野一夫じゃなくちゃ」というマニアックな意見もある。さらにはハヤカワ・ミステリ文庫の表紙が真鍋博から安っぽいハーレクイン風になったときには、オレも含めて何人かの30歳以上の推理小説愛好家を嘆かせた。また新本格ブームをリアルタイムで知っているひとは、「新本格」と聞けば、辰巳四郎のイラストを思い出すであろう。
それではいま若い読書家に愛好されている小説ジャンル、ライトノベルはどうか。たとえば両者が決定的に不仲になるといったことがなければ、上遠野浩平の『ブギーポップ』シリーズのイラストは緒方剛志が担当しつづけるだろう。オレが新作を律儀に買い続けている唯一のライトノベルである野村美月”文学少女”シリーズには、イラストを担当した竹内美穂によるあとがきも載っている。イラストレーターのあとがきが載っている小説を読んだのは、これが生まれて初めてかも。オレが初老の男性になるころはライトノベルも公認された文化になるかもしれない。そしてそのとき、当時のイラストを忠実に復元した書籍は出版されるのだろうか。
もともとは「ライトノベルとそれ以外の小説を分けるのは内容の『文学性』などではなく、出版構造と流通形態の違いだ」と書きたかったのだが、あれこれ考えているうちに、まるで違う内容になった。だいたい上の話題は、すでに似たことを書いたはずだ。

*1:追記:図版を張り忘れていたので、あらためてアップロードした。