エクリチュールに自由を!(もちろんチベットにも)

大岡昇平が1960年前後に執筆したエッセイや論文を中心としつつ、一連の経済的な利益をもたらさないであろう調べものを続ける過程で、戦後の国語審議会の迷走ぶりを知り、「書き言葉は自由であってよい」と思うようになった。「問」と「合」という数百年前からほどんどかたちが変化していない文字の意味を知っており、それを「といあわせて」という日本語と結び付けられるひとであれば、「問い合わせ」でも「問合わせ」でも「問ひ合はせ」でも「問合わせ」でも「問い合せ」でも「問い合せ」でも「」でも「問い合」でも「問合せ」でも「問ひ合」でも「問合」でも(ほかにどのような表記が考えられるのか、時間があるひとは調べてほしい)、何と書いても良いのである。よもや「『問い合せ』の意味は判るが、『問合せ』は判らない」という素頓狂(これは「素っ頓狂」、「素つ頓狂」と書いても良い。「良い」を「よい」あるいは「いい」と書いてもイイ!)はおるまい。
言葉は歴史によって変化するものであり、使用する人物の個人史を反映し、大きな政治的な変動があったときには、為政者や知識人は改造しようとする(イスラエルにおいてヘブライ語が果たしている役割、もっと手っ取りばやいところでは、日本語における「標準語」といわゆる「旧かな、旧漢字」の確立と言文一致運動について調べること)。いまわれわれが使っている言葉は、そのように「揉まれた」上での産物であり、今後の行く末も流動的だ。各種のプログラミング言語のようにひと文字でも間違えると正しく機能しなくなる機械言語やエスペラントのように人工的作り上げられた自然言語ならともかく、それ以外の言語は極端な当て字(これはもちろん「当字」と、って、またやってしまったではないか)やあからさまな誤字を覗けば(はい、さっそく「あからさまな誤字」を使いました)、どう書いてもいい。
これは日本語にかぎったことではない。ロラン・バルトも1976年に発表された「綴りの自由を認めよう」(原題不明)という単行本で4ページしかない短いエッセイで、フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』の草稿でこのふたりの登場人物が"en","am","an"がまったく同じ発音であるのを知って、「『正書法が駄法螺だったとはなあ!』と」、「結論するらしい」*1。英語でも似たような問題はあるのではないか。
よく考えてみようではないか。同じ書き手でもその日の気分、そして職業的な文筆家であれば発表媒体に合わせて、表記が変わる。また思考が活性化し、いますぐ何かを書きたいという欲望が高まったときは、手書きであろうがキーボードで入力しようが、「正しく」書くことより、「速く」書くのを重視しないだろうか。そんなときは表記は滅茶苦茶になっても当然である。ゆえにオレのはてなダイアリーにはあとからこっそり訂正するとはいえ、誤字、誤変換、脱字、重複字が多い。これはただの言い訳だが。
たとえばオレはウェブや活字媒体で発表する文章を書くときは個人的な好みから人間を「ひと」と書くが、個人的なメモの場合は「人」と書く。特に手書きなら「ひと」よりも「人」のほうが書くのに時間がからないからだ。「芸術」あるいは「藝術」と手書きするのが面倒で、英語およびフランス語の"art"で代用することがある。たとえそれが日本の文化芸術に関するものであっても。同じく「音楽」あるいは「音樂」と書くのが面倒で、英語の"music"、フランス語の"musique"で代用することもある。
と、具体例を列挙しているうちに話が迷走してきたが、ともあれオレはバルトと同じく、「綴りの自由を認めよう」と主張したいのである。
以下、オレが論拠とした文章が載っている単行本。

大岡昇平全集〈15〉評論〈2〉

大岡昇平全集〈15〉評論〈2〉

言語のざわめき

言語のざわめき

そして下は、これまでの議論に補助線を引く文庫本。
反=日本語論 (ちくま文庫)

反=日本語論 (ちくま文庫)

*1:原書を持っていないので、括弧内の訳文は花輪光のものをそのまま借りた。