Il n'y a pas d'originalité pure, comme il n'y a pas d'amour heureux.

昨日に引き続いて表参道大学の図書館に行き、参考文献をコピーしまくる。輪郭らしきものが見えてくる。
そのあとは田園都市線直通の半蔵門線三軒茶屋に行って、MiAUのシンポジウム、「青少年ネット規制を考える」に参加。マイクロソフト楠正憲さんの講演、特に聞き応えあり。統計的に「インターネットの普及のせいで『インターネットのおかげで青少年が劣化した』」のが俗説にすぎないのを立証する。むしろネットに自殺予告を書いたおかげで、警察が自殺寸前の未成年者を見付け出し、自殺を阻止する事例が増えたとのこと。ネット技術の発展は、むしろ犯罪抑止に役立っているとのこと。そして小寺信良さんの講演で、いま日本が導入しようとしつつある、ローカル・ディスクにインストールするタイプのフィルリング・ソフトが、失笑するよりほかにない代物であるのを知る。新聞やテレビの報道番組を観れば未成年でも閲覧できる情報が、インターネット上では(親の許可がなければ)閲覧できないとは、何を考えているのやら。高校生諸君、この悪法が成立された私服に着替えてネット喫茶に行って、ウェブを楽しみ、勉学の役に立てるとよい。質疑応答では「ジェンダーとネット社会との付き合いかた」という無意味に長ったらしく、かつ個人的な関心に終始しており、今回のシンポジウムとはそれほど関係の質問をして、懇親会ではかなりの顰蹙を買う。しかし空気が読めないくて何が悪い。オレはオレの思うところを場所をわきまえずに発言するのを本職と心得ている。
懇親会の二次会で津田大介さんから、「鈴木さんは人間的には破綻しているけど、フリーランスで仕事をしているのは評価できる」と、誉められているとも貶されているともつかないことを言われる。オレは「自分は表現者ではなく、仲介者・他分野を結び付ける媒介者になりたい」と言ったのだが、津田さんから「鈴木さんは天然の表現者。仲介者・媒介者にはなれない」と、これまた誉められているとも貶されているともつかないことを言われる。中学生のときに星新一の「無理をして個性的な文章を作り上げる必要はない。個性は勝手に滲み出るものだ」、高校生のときに澁澤龍彦の「私はオリジナリティーを信用しない」(どちらもうろ覚え)、そして大学生のときにロラン・バルトの「作者の死」を読み、それらに多大な影響を受けたので、オレはできるだけニュートラルで没個性、無個性な文章を書くように心掛けてき。しかしどうもそうではないらしい。実際に前にも書いたかもしれないが、友人から「鈴木さんの文章は無署名原稿でも、すぐそれと判りますよ」と言われる。同じく誉められているとも貶されているともつかない。
かような次第で、オレは星新一の「無理をして個性的な文章を作り上げる必要はない。個性は勝手に滲み出るものだ」という主張に全面的に同意するのであった。
おっと、話がずれた。ともあれオレはこの悪法を廃案に追い込むためらなら、あらゆる手段を用いるつもりである。