「髭 眼鏡 猫脊の彼」は前にも引用したか

今日は63年前の夏に「あらゆる責任の頂点にありながらも責任を免れえた」(四方田犬彦)小柄な日本人男性がもし生きていれば107歳の誕生日を迎え、その35年後の同じ日に生まれた元東大総長が「大日本帝国の特権的な祝祭日が名前こそ変わっても今日まで祝日としてうけづがれていることの不条理」(蓮實重彦)を感じる日だが、オレは特にそれに見合った行動をするわけでもなく、家でだらだらと過ごす。当たり前だ。昼食も夕食も自宅で自炊して食べる日が2日も続いたのが、ささやかな特記事項である。
と、他人の言葉を引用してまでこの日付けにこだわるのが、それだけで充分に「それに見合った行動」なのかもしれない。ここで筆を滑らせて、大岡昇平がこの人物に抱いていた両義的な感情について論じてもいいわけだが、依頼原稿でもないのにそんなことまでやる気にはなれない。読書とDVD鑑賞に明け暮れたことだけを報告する。
今日の日記は何を書きたかったのか、われながら判然としない。「私はただ訊ねる 彼の商売は何なのかと/また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと」(中野重治)。これもまた判然としない。