知財ところどころ

ブックオフ著作権管理団体に1億円を献上というニュースから、また新古書店や違法コピーをめぐる議論が再燃している感じがするが、ここで自分なりに論点をまとめたい。
まず指摘したいのは、「最低でもひとりはちゃんと買っているやつがいる」ということ。Winnyに流れている美少女ゲームのデータにしても、ブックオフに並んでいる推理小説にしても、ちゃんと正規の値段で買ったやつがいるから、そのようなかたちで入手可能になっているのだ。Winnyブックオフで手に入るものがすべて関係者が横流ししたものであったり、盗品であったら、むしろそちらのほうが問題だし、現実問題としてそんなことはないだろう。「P2Pソフトや新古書店が出回ったら、文化商品を正規の手段で買う人間がいなくなる」という主張は、この時点で崩れる。音楽、映像、ビデオゲームのようにデジタルコピーが何度でもできる文化商品の場合、たったひとつだけの「正規品」に巨額な値段をつけてスポンサーに買わせ、スポンサーがコピーしたデータをP2Pソフトに流出させるなりレンタルサーバなりに載せるなりして、一般ユーザーがそこからダウンロードするというビジネスモデルが正しいかもしれない。これは冗談だが。
それから新古書店について。新古書店については、特に漫画とミステリが問題視されているようだ。漫画が新古書店に出回る理由は簡単で、前にも書いたけれども置く場所がないからだ。ふつうの小説だったら1ヶ月くらいかけてないと読み切れないページ数がある漫画でも、1日で読み終えてしまう。それをいちいち保存していたら、広大な一軒家に住むか、荒俣宏のように書庫代わりのアパートを借りる必要が出てくる。ふつうのひとにそんな経済力はない。人気のある作品の連載を無意味に長期化させるのはやめて、その代わりに質の高い作品(もちろん2巻以内に完結)をじっくり書かせるという、一般の小説に近いビジネスモデルにしたほうがいいのではないか。これはけっこう真面目な提案である。大友克洋の『童夢』や岡崎京子の『ヘルタースケルター』は1巻だけで完結しているが、何十巻もだらだらと続いている作品よりも「本格的な長篇を読んだ」という読後感を持てるではないか。少なくともオレにとってそうした作品だった。
それから推理小説について。たしかに新古書店に行くと推理小説をたくさん見かけるが、これは要するに出版される絶対数が少ないからではないだろうか。ライトノベルを除けば、いま「文芸書」として出版されている本の半分くらいは推理小説(およびその周辺ジャンルであるホラーなど)かもしれない。これは統計的な根拠があるわけではなく、書店の新刊書のコーナーを見るたびにオレが個人的に感じることだが。さらには出版点数ではなく、1冊あたりの発行部数も違う。無名の純文学作家の初版なんて3000部から5000部がいいところで、しかも滅多に増刷されない。人気の推理小説作家の初版ならその10倍くらいは刷るかもしれない(これもまったくの憶測だが)。しかもそれが傑作であれば何度も増刷される。流通している数が多ければ、中古商品も増えるのが、市場の原則だろう。
それからこれは新古書店ではなく図書館だが、日本推理作家協会は「推理小説は半年しか売れないのだから、半年は貸出しないでくれ」という要望を出しているようだ。これは推理小説に詳しくないひとに、「やはりあんなものは使い捨ての娯楽で、まともな文学ではない」という印象を与えるのではないか。自分で自分の首を絞めてどうする。推理小説が半年で売れなくなるのはネタ的コミュニケーションというか、繋がりの社会性という側面を持っているからだ。人気作家の新作についてマニア同士で熱く語り合うのが、推理小説ファンの楽しみのひとつである。推理小説は「未読の人間には決して詳しい内容を語らない」という鉄の掟(笑)があるので、読んでいない人間は議論に加わりたくても加われない。さらに推理小説作家には固定ファンが多く、彼らは好きな作家の新刊を何としてでも「フラゲ」しようとする。推理小説が半年たったら売れなくなるのはこういうからくりがあるからだと思うのだが、当の作家本人はどこまで理解しているのだろうか。それに真に優れた作品であれば、ロングテールでじわじわと読まれている。たとえば赤川次郎は「半年しか売れない」作家のように思われているかもしれないが、初期の傑作『マリオネットの罠』(ISBN:4167262274)はいまでも定期的に売れている。赤川次郎というと、それだけで馬鹿にするひともいるが、少なくとも初期の作品は傑作揃いである。偏見を持たずにきちんと読もう。
ともあれ半年しか売れない作品は、要するにその程度の出来栄えの作品なのである。