東京都で稚拙なフランス語でチベット問題に関する声明文を読み上げる愚かな私

オレの3月22日の行動に関しては、何人からの知り合いから「訳が判らない」、「恥ずかしい」との批判を電子メールや携帯電話で受けた。たしかに生粋の日本人がチベット問題について、日本の首都の中心部にある公園で英語とフランス語と日本語(しかも英語とフランス語はスペルミスだらけ。発音はそれなりにまともだったと思うが)で平凡な内容の短い声明文を書いて朗読するのは、ひたすら愚かしいだけだったのかもしれない。売名行為と難じられても仕方がないし、「この程度の内容だったら2ちゃんねるに書き込めばそれで済みますよ」と初対面の若い男性たちの苦笑を呼んだ。昂奮が醒めたいまとなっては、せめて中国語で喋ったほうがよかったと感じている。
しかし既存の派閥や政党とは無関係にみずからの政治的な主張を訴えたいとき、ひとはときとして理解しがたい行動に出る。そうせざるを得ない心理的なプレッシャーを感じるのだ。たとえば内田裕也が東京都の知事選に出馬したとき、ときおりフランス語が入り混じっている英語で政見演説をしたのも、オレと似たような心理作用のせいかもしれない。だからといってオレは自分を内田裕也に匹敵するだけの人物だとは思っていないのだが。