担当編集者とプロデューサー

三島由紀夫の『仮面の告白』をめぐってどのくらいの文章が書かれたのか、オレは知らない。ちょっとしたエッセイや外国語で書かれたものも含めれば、膨大な数になるだろう。
そしてオレはビートルズにめぐってどのくらいの文章が書かれたのかも知らない。おそらく『仮面の告白』よりは、ふた桁は多いだろう。
そしてここでひとつの問題が生じる。『仮面の告白』に関する文章で担当編集者だった坂本一亀との関係を論じたものはほとんどないのに、ビートルズを関してはプロデューサーだったジョージ・マーティンに触れているものが多い。マーティン卿についていささかの知識も持たない者がビートルズについて本格的な論考を書いたら、馬鹿にされるに決まっている。しかし『仮面の告白』と坂本一亀というと、「坂本龍一の父親が三島由紀夫の担当編集者だったんだよね」といった、作品解釈には何の役にも立たないトリビアルな知識が披露されるだけだ。
純文学における担当編集者とポピュラー音楽におけるプロデューサーでは、なぜこれほどまでに扱いが違うのか。純文学の場合は初版では担当編集者への献辞が捧げられるが、死後になって再刊された文庫版にそうしたたぐいの情報はほとんど載らないのに対し、ポピュラー音楽ならきちんとクレジットされるからだろうか。あるいは実際の作品にどこまで介入したのか、純文学の場合は検証が難しい(だからこそクレジットされない、とも言える)からか。
本当にどうでもいい疑問だが、気になったので書いておく。