本ノイローゼ

 私は、これまで二度「本ノイローゼ」にかかった経験がある。一度目は大学院に入学したころで、「比較文学比較文化」という専攻のその大学院は、きっと博覧強記の人物がたくさんいるに違いないと思った私は、自分があまりに無知であることに恐怖を抱き、「名著」と言われているような本を片っ端から読みはじめたのである。ところが、いったんこういう作業を始めると、「名著」でさえ数限りない。しかもたいていは難解で、長い。こちらは焦燥に駆られているからじっくり読むというわけにはいかず、訳もわからないままに読みとばすのだが、神田や高田馬場の古本屋街へ行ってしこたま「名著」らしきものを買い込んでくるうち、次に何を読めばいいのかわからなくなってしまい、四冊ぐらい同時並行で読んだこともあった。
小谷野敦『バカのための読書術』(ISBN:448005880X

こういう経験をした読書好きは意外と多いのではないか。オレの場合は大学院に入ったときはもちろん、推理小説を読みはじめたときも「本ノイローゼ」になった。推理小説ファンは意外と旧制高校的な教養主義者が多く、古典的な名作を体系的に読んでいない新参者は馬鹿にされやすい。そこで名作ガイドのたぐいを何冊か買い、上位にランクされている作品を律儀に読むようになったのだが、これがまずかった。たとえ名作と言われていても好みに合わないものは合わない。しかも推理小説は最後まで読まないと損をするので(平板な話だと思っていたのに結末で驚かされ、「やはり名作だ」と痛感することがある。ただしごく稀)、なかなか途中で投げ出せない。「現代思想」系の難解な文章ばかり読んで頭がおかしくなりかけて、リハビリとして推理小説ファンになったのに、これでは二の舞である。そのうちに「面白そうだと直感した作家・作品を読めばいい」と割り切れるようになり、現在にいたるのだが、それまでにはけっこうな時間がかかった。そして面白くも何ともないものを大量に読まされてこうした直感が身に付いた可能性があるのだから、「やはり名作は読むべきだ」という結論になりかねない。どうしてくれる。
そしていまでも間歇的に「本ノイローゼ」になる。どんなジャンルに興味を持っても門前で「必読の作品」がかまえていて、それを読まないと先に進めない気がするからだ。「必読の作品」を無視してあまり重要でない(とされる)ものに淫していると、裏口入学したかのような罪悪感に取り憑かれてのたうちまわる。それなら素直に読めばいいではないかと言われそうだが、好みに合わないものは合わないのだ、繰り返すが。たとえばレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』。これを貶しているひとはあまり見掛けないが、オレはなぜだか苦手なのだ。大学1年のときに買ってから19年間(!)、何度か読破しようとしているのに、そのたびに第一部の途中で挫折する。これはフランス人が原文で読まないと楽しめないたぐいの本なのではないかと難癖をつけたくなる。なおここで『悲しき熱帯』を挙げたのは、この本がどうにも読み通せないという同輩がいるからで、「同輩」がいないがゆえに「じつは読んでいない」「読んだけど面白くなかった」と告白できない本はけっこうある。
ちなみに作品名はよく知られているが敬遠するひとが多い坂口安吾の『吹雪物語』(ISBN:4061960636)やウィルキー・コリンズの『月長石』(ISBN:4488109012)は、まさに「巻措くあたわざる」と一気に読んだのだから、どうにも本の好みは謎である。オレの感受性がおかしいのかもしれないが。