「かわいい」とフェミニズム

昨日の日記のコメント欄で、オタク向けの文化商品には「天然ボケ的な女の子を、優等生的な男の子がフォローする」話型が多いと書いた。この時点で念頭に置いていたのは『涼宮ハルヒの憂鬱』と『撲殺天使ドクロちゃん』(いずれも原作となったライトノベルの第1巻を読んだだけで、その後のメディアミックス的な展開はまったくフォローしていない)で、コメントを書いている途中で『ハヤテのごとく!』を思い出したのだが、今日になってから何もそこまで「濃い」例を出すまでもないのに気付いた。『のだめカンタービレ』や細田版『時をかける少女』のように非オタク層からも支持を集めた漫画やアニメも、やはり上の話型に分類できる。「女の子はちょっと間抜けで欠点があるほうがかわいい」という美学は、日本では一定の支持を集めるようだ。
ここでまたもや四方田犬彦の『「かわいい」論』に言及する。この本は脆くて小さくて未成熟なもの(「天然ボケ」「間抜け」もここに属するだろう)を「かわいい」として愛でる心性がなぜ日本で定着したのかを追っている。そして南方熊楠を真似た四方田犬彦を真似てエティモロジカルにこの語を追究するなら、古語としての「かはいい」は「かはゆし」の転で、「かわいそうだ。ふびんだ。いたわしい」を意味し、例文としては近松門左衛門丹波与作侍夜の小室節』の「明日の日なかにきらるるげな。かはいい事をしまする」がある。以上の出典は旺文社『古語辞典』(ISBN:4010721162)だが、三省堂大辞林』第三版(ISBN:4385139059)の「かわいい」でも、もっとも使用頻度の低い語意として、「かわいそうだ。いたわしい。ふびんだ」があり、近松のまったく同じ文章が出てくる。他社の刊行物をここまで真似していいのだろうかと思うが、どちらの辞書もメインの編者が同一人物(松村明)なので、説明が似てくるのは当たり前かもしれない。
少なくとも江戸前期までは「かはいい」はもっぱら「かわいそう」の意で使われ、現代語における「かわいい」を指すときには「かはゆし」を使っていたこと、そして「かはいい」は「かはゆし」から派生したことが、以上の文献から確認できる。なお「可愛い」の「可愛」、「可哀そう」の「可哀」は、いずれも当て字にすぎない。語源を同じくする言葉が対照的な意味で使われるようになったので、混乱を避けるために「愛」と「哀」という正反対の印象を与える漢字を当て嵌めたのだろう。この表記がいつごろ生まれたのかは確認できなかったが、おそらくは江戸の終わりから明治のはじめだと推測される*1
さてだらだらと書き進めたが、日本でフェミニズム的な言説がなかなか定着せず、たえずバックラッシュに晒されるのは、この辺から説明できるのではないか。女性は「かわいい」ものであり、「かわいい」と「かわいそう」は紙一重であること。こうした美学というかイデオロギーというか価値観が言語レベルで根強く定着しており、これにもとづいた物語が生産されつづけるので、「かわいい」のくびきから逃れようとする女性は反撥を招くのかもしれない。

*1:四方田犬彦の前掲書では二葉亭四迷浮雲』(1887年)から、「父は馬鹿だと言うけれど、馬鹿げて見える程無邪気なのが私は可愛ゆい」が引用されている。