クソ詩雑考

たとえば

(前略)
三崎のカモメよ サカナよ ブタよ
君たちは見たか?
「ごろつき町長はまっぴらだ!」と
白い壁 黒い電柱 褐色の板塀に
僕等の貼りつけたビラ ビラ ビラ
まっぴらのビラ ビラ……
三崎のサカナよ 朝のカモメよ
腹の底に響き渡るエンジン ポンポン蒸気
(君たちは毎日聞いているだろうが?)
お会式の笛太鼓かピーヒャラドンドン
(渡し舟まで風に乗って来てるじゃないか)
此処 三浦半島南端の城ヶ島――
(後略)

や、

おーい、みんな、
(中略)
練習船「銀河丸」が、みんなの骨を集めに、今日東京を出たことを報告します。
あれから十三年経った今日でも、桟橋で泣いていた女達がいたことを報告します。
とっくの昔に骨になったみんなのことを、まだ思っている人間がいるんだぞ。
(中略)
僕も自分で行きたかったんだが、
誰も誘ってくれる人はなく、
なまじ生きて帰ったばっかりに仕事があり、
仕事のせいで行けないんだ。
ここでこうやって言葉を綴り、うさ晴らしするだけとはなさけないが、
なさけないことは、ほかにもたくさんあるんです。
誰も僕の気持を察してくれない。
なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。
わかって貰えるのは、みんなだけなんだと、こん日この時わかったんだ。
(後略)

といった「詩」から、何を感じ取れるだろうか。「政治や戦争について真面目に考えているが文学的な才能には乏しく、その後はこれといった作品を残していないひとが書いたのではないか」といったあたりが、平均的な意見ではないかと思われる。
しかし困ったことに、前者は澁澤龍彦が1953年10月(当時25歳)、後者は大岡昇平が1958年1月(当時48歳)に書いたものなのだ*1。両人とも18世紀にフランスで生まれた小説者の研究者として文学と本格的にかかわるようになり、平明で論理的な散文の書き手として、いまだに評価が高い。
それにしても澁澤龍彦はまだよい。彼が「龍彦」(本名は龍雄)というペンネームでコクトー"Le Grand écart"の翻訳を出版するのはこの翌年であり、これをみずからの文学的出発点と位置付けている。「三崎のサカナよ……」はあくまでも習作にすぎないとするのが妥当だろう。
しかし大岡昇平はどうしたことか。この時点で彼はすでに、『俘虜記』『野火』『武蔵野夫人』などの作品で、第一次戦後派の小説家としての地位を確立している。それが何だって、「クソ詩」*2を書いてしまうのか。もっとも大岡は慎重に、自分の書いたのは「詩のようなもの」、「詩みたいなもの」だと断わりを入れている。しかしそこまで客観的に自作の不出来さを評価しつつも、一部を抜粋して商業誌に発表した事実は揺るがない。
なぜ「戦争」や「政治」を語ろうとすると、この国の優れた散文家たち(そして優れた詩人も)は、「クソ詩」を書いてしまうのか。いや、この言いかたは正しくない。「戦争」や「政治」に直面するとうろたえて、ふだんなら決して書かないような陳腐なものを書く者こそ、優れた文学者ではないだろうか。少なくとも太平洋戦争後に「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいい」などと逆ギレ気味の捨て台詞を吐くアルチュール・ランボーの翻訳家よりは、誠実ではないかと思う。もっとも「おーい、みんな」で始まる「クソ詩」を書いた人物が、「逆ギレ気味の捨て台詞を吐くアルチュール・ランボーの翻訳家」への敬意を生涯にわたって失うことはなかったのだが。

*1:後者は『ミンドロ島ふたたび』(ISBN:4122003377)に収められているが、前者は澁澤龍彦の生前に刊行された著作には収録されていない。河出書房版『澁澤龍彦全集』(ISBN:4309706509)に収録されているかどうかは不明。ただし『別冊幻想文学 澁澤龍彦スペシャルI ドラコニア・クロニクル』で読める。

*2:この言葉の含意が判らないひとは、「藤井貞和」「湾岸戦争」といったキーワードをもとに、各自検索されたい。