お前はお前の音楽を弾け!

20年に1回くらいの周期で再評価の機運が高まるが、いまひとつ盛り上がらないままに終わってしまう兼常清佐という人物がいる。彼は1930年代に「名人が弾いても、私が万年筆で叩いても、猫が上を歩いても、同じピアノからは同じ音しか出ない」「名人の恣意的な解釈によってもとの楽曲の良さが損なわれるくらいなら、自動ピアノの技術が進歩して名人が滅亡したほうがいい」と発言して、物議を醸した。彼の問題提起は「お前はお前の音楽を弾け!」(過去の名曲を再現するのに一生を捧げるくらいなら、みずから新しい音楽を創造したほうがいい)という一点に尽きるのだが、レトリックが奇矯すぎたためか、「ピアニスト無用論」として矮小化された。誤解されることが多いが「ピアニスト無用論」は兼常自身ではなく、当時のジャーナリズムの造語である。
しかしいまはどうだろう。デジタル機器やアプリケーションにデータを打ち込んで楽曲を作るのは、ポピュラー音楽では当たり前の手法になっている。「この曲はドラムを機械まかせにしているので偽物の音楽だ」と憤慨するひとは、かなり珍しい部類に属するだろう。音楽的な感性は豊かだが楽器の演奏が苦手なひとでも、音楽を創造する楽しみを味わえるようになったのは、悪いことではないと思う。
70年も前の話をこんな風に持ち出したのは、「初音ミク」をめぐってネット上で繰り広げられている議論は、「ピアニスト無用論」のころからあまり変わっていないように思えるからだ。一方には「初音ミクなみの歌唱力とルックスさえあれば、Perfumeなんて無用だ」と主張するひとがいれば、他方には「どれだけ電子的に加工されていてもPerfumeのヴォーカルには固有性があり、初音ミクごときでは置き換えられない」と主張するひとがいる。オレはPerfumeにも初音ミクにも強い魅力を感じないので(これはただの趣味の問題にすぎない)、どちらに加担する気にもなれないのだが、こうした議論のありようには興味がある。
初音ミク」がかくも注目されているのは、「声」という最後の領域までもが犯されつつあるからだろう。ほかの楽器がどれだけ機械化できても、人間の肉体そのものが楽器である「声」だけは機械化できない。「初音ミク」に代表される音声合成ソフトは、そんな信憑に揺さぶりをかけているからこそ、うろたえるひとがいるのではないか。
いまだにピアニストという職業が成り立っているように、歌手という職業も消えてなくならないだろう。モーツァルト「恋とはどんなものかしら」の初音ミク版*1は往年の名メゾソプラノ歌手に較べれば、「これはひどい」。日本語を歌わせるために開発したアプリケーションで強引にイタリア語を歌わせているのだから、ひどくても当然だ。しかし今後の技術の進歩によっては、「中の下」クラスの音楽大学の声楽科に合格できるくらいには、アプリケーションもユーザーも洗練される気がするのだ。
ちなみに兼常清佐は音と音楽に関する研究所を作り(詳細は不明)、音波の測定技師などの協力を得て日本語や日本民謡の特徴を数値的に測定し、結果を『日本語の研究』という書物にまとめている(1939年)。存命中なら122歳になる彼が「初音ミク」を手にしたらどんな感想を漏らすのか、ぜひとも訊いてみたいものだ。

音楽と生活―兼常清佐随筆集 (岩波文庫)

音楽と生活―兼常清佐随筆集 (岩波文庫)

うわ、いまでは入手困難になっているのか、上の本は。既刊書を絶版にはせず、古書店での値段が不当なまでに値上がりしたところで復刊させる岩波文庫のやりくちは、ツンデレ商法と名付けたい。

*1:視聴するにはニコニコ動画のアカウントが必要。