労働としての読書

人間を守る読書 (文春新書)

人間を守る読書 (文春新書)

いちじるしい矛盾を孕んだ書物である。この本を読めば『ロリータ』はやっぱ若島正の新訳で再読しなきゃ、だの、『春の雪』ってそんな話だったっけ、確認しなきゃ、だの、うわ、「ヨナ書」はちゃんと読まなきゃ、だのといった気持ちにさせられる。しかし著者自身が「本を読むさいにもっとも悪い読み方とは、勉強のために、仕事のために読むこと」、「本を読むさいに理想的な読み方とは、勉強とも仕事とも無関係に読むこと」としているのだ。だったらどうすればいいのだ。
なお四方田犬彦は「わたしにとって読書とは、責任を欠いた、つまり換言すればいつ放り出してもいい快楽でなければなら」ないので、登場人物の性格や細かい伏線をきちんと記憶していないと読み進められない推理小説は「読書が労働に似てくるかのような」ので苦痛だと記している。しかしオレは大学生のときに推理小説を濫読することで、それまではどうしても苦手だった長篇小説を最後まで読み通すこつを教わり、そのおかげで読書の幅が広がった。かなりこのジャンルには恩恵を受けているわけだ。
どうもオレには著者が提言している「理想的な読み方」は、何でもいいからがむしゃらに読んで読んで読みまくった者だけが達する境地であり、その域に達していない者が下手に真似しても何も身に付かずに終わってしまうように思えてならない。とりあえずは「労働としての読書」をひたすら繰り返すしかないのだ。実際、「前書きにかえて」で、「『暇になったら読もう』なんて思っていては、きっとその人は一生読まないでしょう。いますぐにでも後々読み直すことができる本を探してみてください」とも提言している。これにはオレも全面的に同意する。畢竟、読書の楽しみとは再読する楽しみにほかならない。20年も前に読んだ本をぱらぱらとランダムに拾い読みして、そこから思いがけない文章を発見するのは、至上の喜びである。
しかし「再読する楽しみ」を味わうには、とりあえずは「労働としての読書」を黙々と実践するしかないのだ。