正しくなくてもいいぢやない

旧かな(歴史的かなづかひ、と書かないと怒られるやうだが)でブログを書く者はそれなりに存在する。しかし不思議なことに、文学者や文学研究者のブログではあまり旧かなにお目にかからない。数少ない例外としては高遠弘美氏(珍しく敬称を付けるのは、彼がオレにフランス語のてほどきをした「師」だからである。向こうはオレのことは忘れているだろうが)くらいである。目立つのは技術畑、とりわけプログラマのブログである。いったいなぜ彼らは、旧かなにこだわるのか。
以下はプログラミングには耳学問程度の知識しか持たぬ者の言であり、ゆえに用語や事実関係はあまり正確ではないが、機械言語においては、ほんの1文字の書き間違いゆえにプログラムが正しく動作しないことがある。厳密には機械言語ではなくマークアップ言語だが、HTMLを自分で書いたことのある者(プログラムを書いた者よりは多いだろう)なら、「ほんの1文字の書き間違い」に頭を悩ませた経験があるだろう。この機械言語の持つ厳密さを自然言語にまで求めるために、ある種のプログラマは旧かなにこだわるのではないか。オレにはそのような気がしてならない。
語源学的にも文法的にも、旧かなのほうが「正しい」。この点にはオレも同意する(高遠氏も旧かなの語源的な正しさを授業中に力説していた。第二外国語のフランス語の授業なのに)。しかし決して「正しく」なくても通じてしまうのが自然言語の面白さと恐ろしさであり、旧かなにこだわるプログラマは、機械言語の学習によって得られた潔癖さゆえに、自然言語の持つちゃらんぽらんさが許せず、「正しい」表記にこだわるのではないか。
ここで気になるのが大岡昇平である。太平洋戦争後も旧かなにこだわった文学者は、小林秀雄三島由紀夫吉田健一福田恒存と、どちらかと言えば政治的には保守派に属していた。しかし思想的には彼らと相容れるとはかぎらない大岡まで、昭和40年ごろまでは旧かなにこだわっていた。これを単に小林、福田に対する友情の表れと解釈するのは皮相にすぎるだろう。オンライン古書店でやたらと高値がついている『常識的文学論』などで、なぜ自分が国語「改悪」に反対するのか、声高かつ彼らしいロジカルな口調で語っている。
しかし前述のように、大岡は1960年代に新かなへと「転向」する。おそらくは授業のためのレジュメとして書かれたと思しい敗戦後論では、大岡は

敗戦という結果の後には、以前と元通りになる、復古が可能だとしたらそのような「復古」は死者が生き返らず、何もかもが元通りになるのでない以上嘘だ。ゆえに「わが国が敗戦の結果背負わされた十字架として、未来永劫背負っていく」つまり、戦後を通過してきて与えられた「現代的仮名遣い」を『悪から善をつくる』と考えそれを使っていくことが大事なことであると考えた。

といったことを述べたらしい。正確な出典が知りたいところである。