眼鏡雑考

オレは極度の近視で、過去に何度か眼鏡を破損・紛失して大いに往生したことがある。そのため、「眼鏡が普及していなかった時代は、近視のひとはさぞかし生活に苦労しただろうなあ」と想像していたのだが、今日になって、じつはそうでもなかったのかも、思えてきた。眼鏡がなくてオレが感じた具体的な困難は、メールがチェックできない、本が読めない、原稿が書けない、バス停や駅の名前が確認できないといった、もっぱら文字に関する問題ばかりである。それを除けば、じつはあまり困らないのだ。
いまざっと調べたら眼鏡が発明されたのは13世紀末か14世紀初頭のイタリア、日本に輸入されたのは16世紀後半のようだ。当時は識字率がいまほど高くなく、したがって生活のなかで文字が占める重要性も高くなかったのかもしれない。近視だからといって困るのは識字率の高い国や時代に生きる人間であって、それ以外では「ちょっと不便」くらいなのではあるまいか。
要するに識字率がほぼ100パーセントのいまの日本が、「文字に依存している」という実感が湧かないほど文字に依存しきった社会だと、眼鏡の破損・紛失によって確認できたのであった。
きわめてつまらない結論だが、前提となった疑問がそもそもつまらないのだから仕方がない。許せ。