音痴とディシプリン

音痴といっても意味は二種類ある。まずは音楽の楽しさや素晴らしさがまったく理解できないという意味での「音痴」、次に音楽は嫌いではないが、なぜか正確な音程で歌が歌えないという意味での「音痴」。ここでは後者について語る。
オレは小学校3年生までは、どうにもならないくらいの音痴(後者の意味)だった。何しろ「校歌斉唱」のときに超絶非技巧を発揮して、うしろの列の女の子の失笑と嘲笑を浴びるくらい、「正しい音程」とは縁なき衆生だったのだ。たまりかねた母親は、オレに対してこのようなディシプリンをほどこした。

  • ピアノの任意の鍵盤を叩く
  • それに近い音を歌わせる

ただこれだけである。
次第に自発的にこのディシプリンを実践するようになったと記憶する。最初のうちは、ピアノが発している音と、自分が発している声がずれていることにすら気付けなかった。しかし段々とずれているのが理解できるようになり、さらにそれが高いほうにずれているのか、低いほうにずれているのか、まで判ってきた。そして「高いほうにずれている」と判ったら、自分の声(音程)を低くしていく。すると突然「ユニゾン」が現れる。この「はじめてユニゾンで歌えた瞬間」は、「はじめて補助輪なしで自転車に乗れた瞬間」に匹敵するものだったといえよう。これ以降、オレは「うまいわけではないが、カラオケに行くのを気後れせずに済む」程度の歌唱力を身に付けることになった。
要するに自分から「新しい音楽」を作り出すのならともかく、他人の作った音楽を忠実に再現するのなら、こうした地道なディシプリンを続けるしかないのである、音程にしても、リズム感にしても*1。だからこそ野田恵も留学しているパリの著名な音楽学校は、コンセルヴァトワール(保守するところ)と名付けられているのだ。

*1:もっともこうしたディシプリンによって、西洋近代音楽の枠組みに上手に収まらない音程やリズム感を身に付けられなくなるかもしれないが。