雑誌は「雑」誌である

昨日、「リテレール」の話を書きかけてやめたので、今日は続きを書く。
もはや記憶しているひとは少ないかもしれないが、「リテレール」は「中央公論社の名物編集者」として名を馳せた安原顯が同社を退社して1992年に創刊した書評誌。文学や哲学といった世界におそるおそると足を踏み入れようとしていた高校生のとき、「マリ・クレール」を立ち読みして「こんなにハイブロウな女性向けファッション誌があるのか!」とびっくりして、角川文庫から出た『読書の快楽』を読み、「こんなに面白いブックガイドがあるのか!」と再度びっくりして、これらが同じ編集者の手によるものであることを知ったオレはかなりの安原顯信者(ただし彼自身が書く文章はそれほど好きではなかった)で、当然ながら「リテレール」にも大きな期待を抱いていた(創刊号をいまめくったら、「リテレール」創刊を好意的に伝える新聞記事を切り抜いて挟み込んでいた。そのくらい気持ちが高揚していたのである)。
しかし「リテレール」は「次号からは面白くなるに違いない」と毎号のように期待しながら買い、「次号」が出るたびに期待を裏切られた。個々の記事には印象に残るもの、面白いものがあったが、「雑誌」としては面白くならなかったのだ。
それはひとえにこの雑誌が「安原顯 独断編集!!」と銘打っており、実際にそういう編集方針だったからだろう。特集や連載の内容はすべて安原顯が決め、原稿を依頼するのも、すべて安原顯のお眼鏡にかなう人物。雑誌はまさに「雑」誌だからこそ面白いのであって(たまには「なんでこんな記事がこの雑誌に載ってるの?」と思わざるを得ないような文章が載っているのが、雑誌ならではの楽しみだ)、個性の強すぎる編集者が何もかも自分の裁量で編集できる場を持つと「純」誌になってしまうのだなあ、といまにして思う。