緩慢な自殺
生まれて初めて失恋を経験したときに、オレは節食と絶食による緩慢な自殺を図った(痛いのは怖かったし、非合法な薬物を入手する手段を知らなかった)。しかし何しろ食欲旺盛で生命力溢れる19歳の時分、この計画は3日前後にして頓挫した。大変につまらぬ喜劇である。
「ところで、昨日朝日支局へ行って東京の新聞を読んだのですがね、本屋に川端コーナーができて、飛ぶように売れるそうです。私もやっぱり自殺します。それが家族のために一番いいようですから」
キーンさんはけたたましく笑った。彼がこの時のように愉快に笑うのを聞いたことがない。
「自殺予告だけ出す手もあります。司馬江漢はそうしました。そして自殺しなければいいのです」
私は自殺しないな、というようなことを考えた。かりに私に自殺的傾向があるとしても、作品の中で私は多くの人物を自殺させている。自己解剖によって、徐々に自殺を遂げつつある。芸術院会員辞退もまた一つの自殺と考えることができる。
大岡昇平『萌野』