崩落寸前の「繋がりの社会性」

いまブログでTwitterに触れると注目するひとが多いので、淋しがり屋で自意識過剰のオレは当然ながら触れる。「Twitterはあまりにも純化されすぎて崩落寸前になった『繋がりの社会性』である」。はい、おしまい。
Twitterでは「Friends」(私が友達になりたいと思っているユーザー)と「Followers」(私を友達だと思っているユーザー)が完全に一致するわけではない。ここがSNSとは決定的に異なる。ゆえに「FriendsではあるがFollowersではないユーザー」に向けてメッセージを発しても、そのユーザーのもとに届くとはかぎらない。しかも入力できる文字数が半角で140字とかぎられているので、「内容のある」文章は書きづらい。こうした特性のゆえに単なる独白なのか、それとも対話を求めているのか、書いている本人にもよく判らないメッセージが溢れることになる。にもかかわらず何となく対話が成立してしまう瞬間があり、それがTwitterならではの面白さになっている。開発者が何を意図したのかは判らないが、オレの周辺にいる日本人ユーザーのあいだではTwitterは上のように使われ、楽しまれている。この「ゆるさ」や「淡さ」はメッセージが誤配される可能性(「危険」とはあえて言わない)につねに満ちているブログとも、メッセージが誤配されないように丁寧に設計されているSNS(とりわけmixi)とも違った安逸さをユーザーにもたらす。
このように説明してもどこが「純化されすぎて崩落寸前になった『繋がりの社会性』」なのか納得できないひとが多いかもしれないが、それならば自分で試してほしい。SNSとは異なり、招待されなくても登録できる。しかしネット上に親しい友人が少ないと面白くない点では、SNSに似ていなくもない。