猫々痴談

yskszk2007-03-28

ネコを撮る (朝日新書 33)

ネコを撮る (朝日新書 33)

オレのハードディスクを漁るとデジタルカメラで撮影した猫の写真が大量に見付かる。右に載せたのはそのなかの1枚で、猫の躍動感が図らずも映し出された秀作だと自負しているが、偶然の産物であることは間違いなく、ほかのは若い父親が愛児の写真を撮るようなもので、審美的な価値はない。そこで本書で少しは技術を身に付けようといった向上心が自分にあるはずもなく、一流の動物写真家による豊富な図版を楽しむのが目当てで買ったに決まっている。しかし残念ながら楽しいばかりの本ではなく、心痛む一節もある。

……よく、「岩谷さん、どこに行けばネコがたくさんいるんですか」と質問されることが多いが、最近は「どこそこに行くとネコがたくさんいるよ」とは声高に言えなくなってしまった。写真を発表した際に、撮影場所が特定できるような表記をしたとすると、そこに捨て猫が増えたり、ひどい場合だと一部の心無いヒトによって、毒を与えられるなどしてネコたちが虐待されたりするからだ。そのため、写真には撮影地○○市くらいまでは明記するものの、以前のような細かな表記は避けなければならなくなった。

そんなお前たちこそ家族や恋人に捨てられて、毒を盛られてしまえばいいのだ。
そのうちに写真にたまたま写り込んだ商店の看板を手掛かりに、インターネットを駆使して場所を特定する手合いまで出てくるだろう。かといって不自然なトリミングをほどこしたり、看板にモザイクをかけたりなどすれば、芸術写真としての価値は激減するわけで、なんと素晴らしいWeb2.0総表現社会でありましょうか。
しかしこれは現代にかぎったことではなく、愛猫家として知られる大佛次郎も自宅の庭に猫を捨てる輩に悩まされたというのだから、「心無いヒト」の絶滅は困難である。もちろん絶滅寸前になったところで、WWFが保護する必要もなかろう。

 小猫で鈴をつけて、よく庭に遊びに来るのがあった。時間が来ると、いつの間にか帰ったと見えて姿を隠し、また明日、やって来る。かわいらしい。どこから遊びに来るのかと思って、ある日、
「君ハドコノネコデスカ」
 と、荷札に書いて付けてやった。三日ほどたって、遊びに来ているのを見ると、まだ札をかかげているから、かわいそうにと思って、取ってみると、思いきや、ちゃんと返事が書いてあった。
「カドノ湯屋の玉デス、ドウゾ、ヨロシク」
 君子の交わり、いや、この世に生きる人間の作法、かくありたい。私はインテリ家庭の人道主義を信じない。猫を捨てるなら、こそこそしないで名乗る勇気をお持ちなさい。
大佛次郎「ここに人あり」

ちなみに「猫々痴談」というタイトルは同じく大佛大人のエッセイから借用したものであり、『八犬伝綺想』の著者に対して含むところは何もない。ともあれ猫について語り出すと、かくもしまりのない文章が続くのだから、痴談もここに極まった。