いじめと悪循環

サルトルの『ユダヤ人』[amazon]を読んでいたら、猛烈に大岡昇平の『ザルツブルクの小枝』[amazon]*1を再読したくなる。1950年代のアメリカにおける黒人差別の実態について触れているくだりを、再確認したかっただけだが。

たとえば「デブ」だからという理由で、いじめられている子供がいるとする。それではこの子供はダイエットに成功したら、いじめられなくなるだろうか。そんなことはない。「ダイエットなんかして、生意気だ」という理由で、やはりいじめられつづけるだろう。

あるいは「不潔」はどうだろう。「デブ」であるかどうかは、ある程度は外見から客観的に判断できる。しかし「不潔」となるとそうはいかない。もしその子供がどれだけ清潔に気を配ろうとも、襟元のわずかな雲脂をとがめられ、やはり「不潔」という烙印を押されるはずだ。あるいはその子供が「逆ギレ」して、より不潔な恰好で登校するようになり、事態がさらにこじれる可能性すらある。要はいじめの「理由」など、あとから考えられたものにすぎず、先行するのは「何が何でもあいつをいじめたい」という情熱なのだ。

そしてこれはユダヤ人差別、黒人差別にも共通する構造であり、それを見抜いていたサルトル大岡昇平は、やはり慧眼である。とりわけ「僕は無論アメリカの差別待遇に義憤を感じる点では、人後に落ちないつもり」でありながら、はじめて訪れたアメリカで一部の黒人の「頽廃」ぶりを目の当たりにして、「成程これは隣りに坐られると愉快な人達ではない」と感じながら、「頽廃」のそもそもの原因が白人側の差別待遇にあるのだと思い至る大岡昇平の心の動きは、よほどの機会がなければ日本人が渡米するのが困難だった時代の証言ということもあり、貴重なものだと思う。

「いじめは、いじめる側だけではなく、いじめられる側にも問題がある」としたり顔で口にする者は、こうした倒錯と悪循環にどこまで自覚的なのだろう。

*1:古本屋をめぐってようやく手に入れた本が、アマゾンで売られているのを発見すると、いささか脱力する。