昨日の記事について

昨日の記事、「メンタルヘルスと治療」の後半で「メンヘル系」に言及したところ、何人かの知人から安直さ、無知さを指摘されました。この記事はもとはオレ自身の個人的な体験談で話を終始させるつもりでしたが、それだとウェブ上ではあまり触れたくないことにも触れざるをえなくなるといった事情があり、「メンヘル系」を不適切な例として持ち出してしまいました。みずからの軽率さを反省しています。またオレの「メンヘル系」への理解の浅さを不快に感じたかたにはお詫びいたします。

師弟

四方田犬彦「先生とわたし」を読了する。個人的な回想から離れて「師弟とは何か」を問い始める「間奏曲」から文章の密度が上がり、内容が純化される(もちろんそれまでがつまらないわけではない)。ここを本当に単なる「間奏曲」だと思って読みすごすと、東大の学内政治を描いたゴシップ譚だと勘違いするひとが出てくるかもしれない。「はたして人よりも知識をもっているというだけで、それを職業として生計を立てていてよいのだろうか」

邪心ある読書

由良君美は「ある主題の論文を執筆せんがために、体系的に書物のリストを制作し、それを秩序付けて読み進めるという研究の仕方を認めようとしなかったし、そもそも論文執筆のための労働としての読書という考えを拒否していた」(「先生とわたし」より)そうである。オレは数年ぶりに「変ドラ」にアクセスしたのがきっかけで、自分なりの「変ドラ」を見付けようとして「ドラえもん」を再読したのだが、何も得るところがなかった。「変ドラ」はただの楽しみのために「ドラえもん」を読んでいるときに、ふと見付かるのだろう。「邪心ある読書」から得られるものは乏しい。昨日も書くことになるかもしれない原稿とまったく同じテーマを扱ったテレビ番組を、「何かのヒントになるかも」と思って観たのだが、空振りに終わった。これもまたテレビの制作スタッフのせいではなく(番組そのものの出来栄えは悪くなかった)、オレの邪心のせいだろう。