たけくまメモ:【猿漫】サイズに関するご相談

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/post_3f9d.html
いまでは漫画の単行本といえば、新書判かB6判でないと売れず、A5判は「論外」であるらしい。そこでいま手元にある漫画から、A5判のものを集めてみた。

こうして見るとたしかに「読み手を選ぶ」作品や、固定ファンの多い作家の作品が多い(もっともディープな漫画好きからすれば、これでも「薄い」ものしか読んでいないのだろうけど)。もちろん『夕凪の街』のように結果としては大変な話題作になったものもあるが、これにしたところで出版元にしてみれば、想定の範囲外のヒットであろう。
ところで書籍のサイズとしてはいささか変則的な新書判が、漫画の単行本のフォーマットとして定着したのはなぜなのだろう。以前、何かの書籍かブログで「おお、そうか」と腑に落ちる説明を読んだ覚えがあるのだが、詳しいことを忘れてしまった。
それにしてもかつては光り輝いていた「A5判の漫画」が、いまでは「売れない」というレッテルを貼られているとは、何とも淋しい話ではある。10代後半にもなって「ジャンプ」や「マガジン」を読んでいる同級生をちょっと小馬鹿にしていた地方の高校生にとって、A5判の漫画は恰好の「背伸びアイテム」だったのだけれども。

私的参拝

オレは一度だけ、靖国神社に参拝に行ったことがある(「見物」に行ったことなら、何度もある)。何人かの友人と初詣を兼ねた宴会をすることになり、そのときの主賓が市ヶ谷在住だったので、「JR市ヶ谷駅からいちばん近くにある神社」としてたまたま靖国を選んだだけにすぎないのだが。
そのときにも、そしてそれ以前に「見物」したときにも感じたのだが、靖国は徹底的に「西洋的」な神社である。あくまでもシンメトリカルに配置された各種の建造物や、第一鳥居から本殿までを一直線に突き進んでいる参道は、日本のどんな伝統的建築物よりもパリの凱旋門通りを連想させる。このあまりにも19世紀ヨーロッパ的な神社を崇め奉るくらいなら、もっと純和風の戦没者追悼施設を新しく作ったほうが、いにしえの日本人たちの魂も慰められるのではあるまいか。
ちなみに靖国神社が持つ「いかかがわしさ」や「悪場所としての魅力」に興味があるひとなら、以下の本をぜひ。

靖国 (新潮文庫)

靖国 (新潮文庫)

坪内祐三『靖国』評

上のエントリを書いてから、とあるオンライン書店(残念ながら、いまでは閉鎖されている)に寄せた書評がハードディスクから発掘されたので、ついでに載せておく。

 大学3年の秋に初めて靖国神社を訪れた私は、日本の伝統的な美学(とされているもの)とはまるで相反するその外見にまず驚かされ、次に圧倒された。第一鳥居から本殿にいたるまでまっすぐに伸びた広く開放的な参道、大村益次郎像を中心にシンメトリカルに構成された幾何学的な設計、整然と植えられた樹木、これらの要素は日本のどんな神社仏閣よりも、同じ年の夏に短期滞在したパリの街並みを連想させるものだった。
 実際、いささか強引ではあるが、靖国の第二鳥居を凱旋門、それに続く参道をシャンゼリゼ通り、本殿をルーヴル宮に比することもできよう(靖国神社の前身である東京招魂社が建立された1869年は、それまで中世の影を色濃く残していたパリがオスマン男爵の指揮のもとで近代的な都市へと整備された、フランス第二帝政が崩壊する前の年にあたる)。帰りぎわ、夕陽を背景に黒々と輝く巨大な鳥居を見たとき、西洋の大聖堂を思わせる威容に、政治思想とは無縁の視覚的な感動を覚えたものである。
 そもそも参道が「まっすぐに伸びている」神社など、日本中どこを探してもそうあるものではない。たいていは最初の鳥居をくぐってから本殿に達するまでのあいだに、どこかしら曲がり角をつけているものだ。また石造の建築物が目立つことも、日本らしからぬ印象を強めるのに役立っていた。太平洋戦争にまつわる遺品を納めた「遊就館」に、危惧していたほどの民族主義的な傾向が見られなかったのにも、拍子抜けさせられた。要するに靖国神社は私の目に、極めてモダンな存在として映ったのである。
 マスコミや政治団体を通じて語られる「靖国問題」の前近代的なまがまがしさと、現実に目の当たりにした「靖国神社」のモダンで洗練された佇まい。数年来私の心に引っかかっていたふたつの「靖国」をめぐるギャップは、坪内祐三氏の『靖国』に接することでようやく埋められることになった。
 氏はまず「靖国」がイデオロギー的側面でのみ語られるようになったのが、おもに1970年代に入ってからであることを指摘する。そしてそれ以前の靖国が持っていた多様なありようを、豊富な資料にもとづきながら描出している。
 たえとば明治4年1871年)というはやい年代に、フランスからやってきたサーカス団が靖国神社(当時は招魂社)境内で公演をおこなったことが記録されている。この公演は商業的には失敗するものの、以後、靖国は国内外の著名なサーカス団の公演の場として愛用されるようになる。それとほぼ同じ時期に競馬、物産会(博覧会)、相撲など、およそ統一感のない雑多なイベントが立て続けに開催される。特に明治維新以降、「蛮風として廃止すべし」という声もあった大相撲は、靖国本場所が開催され、「国技」としての体裁を整えることでようやく息を吹き返した。現在では戦没者の遺品を展示している遊就館にも、美術館に近い性格を帯びていた時期があった。少なくとも明治・大正期にかけては、靖国イデオロギーの場としてよりも、庶民のためのハイカラかつキッチュな娯楽施設として機能していたのである。
 この機能は、昭和に入ってからも完全に途絶えたわけではない。昭和36年(1961年)には力道山が率いるプロレス大会が奉納され、いまでいう「ミゼット・プロレス」(!)が1万人を超す観衆の喝采を浴びた。さらに極めつけは、太平洋戦争敗戦から1年も経たない時期に、靖国神社とその周辺を30を超す映画館、飲食店街、商店街、ホテル、国技館能楽堂、劇場、各種教育文化施設を備えた、大アミューズメントパークにする計画があった事実だろう。この計画は新聞にスッパ抜かれてあえなく頓挫するが、仮に実現していたら戦後の東京はいまとはまったく違う風景を見せていたに違いない。
 また坪内氏は靖国神社の性格形成に影響を与えてたものとして、「九段」という土地の特性にも注目している。下町と山の手の境界に位置し、明治以前の「歴史」が希薄なこの一帯は、それゆえにモダニズムのさまざまな実験の場になりえた。多くの芸術家に人的交流や作品発表の場を与えたパトロン的存在である野島康三を施主とし、かの同潤会アパートよりもさらに近代的な設備を兼ね備えていた「野々宮アパート」は、靖国神社のはす向かいに位置していた。現在の九段会館のあたりには、購買客が自由に商品を見て取ることのできる(すなわち今日のデパートの前身である)、旧来の商習慣から解放されたショッピングセンター「勧工場」があった。いまでこそレトロな雰囲気を漂わせている九段界隈だが、かつては東京のなかでももっとも先端的な街だったのである。もし靖国が当初の候補地のひとつであった上野に建てられていたら、この神社はより早い時期に、かなり異なったかたちでイデオロギー色を明確にしていたかもしれない。 本書の魅力は、明治以降の日本を特徴付けるさまざまな事象に、「靖国」をキーワードとしてこうして新たな光が当てられる点にある。
 最後に靖国がいまだに「ハイカラかつキッチュ」な性格を失っていないことを示す、ひとつの具体例を紹介したい。それは毎年7月13日から16日まで開催される「みたままつり」である。鳥居や本殿が美しくライトアップされ、カラオケや生バンドの伴奏によるのど自慢大会が開催され、江戸川乱歩の小説さながらの見世物小屋が店を出すこの祭典は、どこかのいかがわしい新興宗教団体のイベントであるかのような、猥雑な活気をたたえている。
 そう、建立されてからまだ130年にしかならない靖国神社は、「当初、神官がいなかった」という曖昧な出自を持つ、「いわば一種の新興宗教」なのだ。『靖国』は民族主義者が擁護し、進歩派が否定する「日本的なもの」が、意外なまでに脆弱で底の浅い歴史しか持っていないことを示している。来世紀に向けて「教科書が教える」べきなのが、こうした「歴史」であることはいうまでもない。