ヨースケ・ヤマシタのマルス8日

山下洋輔が炎上するピアノを演奏したというニュースは、はてなブックマークでも賛否両論を喚起している。山下洋輔が何者であるかさえ知らないひとの感情的な反撥は論外として、彼の今回の行為についてちょっとだけ真面目に考えてみたい。
かつて柴田南雄グレン・グールドの奇矯きわまりないモーツァルト解釈について、「ジョン・ケージ西洋音楽のシンボルであるピアノという楽器を用いて、それを一音も発せしめることなく終る、通称 <四分三十三秒> と呼ばれている無題の曲を『作曲』したのと、それはきわめて似た行為である」と指摘している(青土社『音楽の理解』より)。ケージは演奏家ではなく作曲家だから、「何も演奏しないピアノ曲」を作れる。これに対してグールドはあくまでもピアニストなので(本人は作曲家として認められたかったようだが、残念ながらいくつかのコミック・ソングを除けば、あまりいい曲を残していない)、何かを演奏しないわけにはいかない。何も演奏しないのは、演奏家としての無能だけを指し示す。そこでピアノとならんで「西洋音楽のシンボルである」モーツァルトをだしにして、まったく擁護できない珍妙な解釈で演奏することで既成の音楽界に挑戦状を突き付けたのではないか、というのが柴田の憶測である。これにはオレも同意する。
そしてケージ、グールド以降の時代に生き、自分の仕事に対して批評的な精神を持っているミュージシャンたちは、自分は何をすべきなのかを多かれ少なかれ考えているはずだ。たとえば坂本龍一はグラウンド・ピアノに較べれば表現能力の劣るアナログシンセサイザーシーケンサーに連結することで、ピアニストとしての自我を一度は放棄している。山下洋輔にとってのピアノ炎上も、これと同じ意味を持っていたのではないか。何も演奏しない(ケージ)のも、既存の名曲を奇怪な解釈で演奏する(グールド)のも、すでにやられてしまっている。それならあとに残されているのは、ピアノを壊すことだけだ。1973年(このころはジャズ・ミュージシャンのあいだではシンセサイザーは普及していなかった。またグールドがモーツァルトピアノ曲全集を完結させたのも、坂本龍一電子音楽に興味を持つようになったのも、だいたいこの前後である)の山下洋輔の脳裡には、こんな考えがあったのではなかろうか。
しかし残念なのは、今回の演奏があくまでも「あの時得た表現は何だったのか再確認したい」という理由にもとづいていること。それではただのノスタルジーではないか。オレはマルクスが残した有名な言葉をどうしても思い出してしまう。

 ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、かれは、つけくわえるのをわすれたのだ。
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』(伊藤新一・北条元一訳、岩波文庫

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

と、ここで話を終わらせれば恰好が付くのだが、オレは照れ性なので蛇足を加える。山下洋輔坂本龍一は親しくしていた時期があり、テレビで共演したり、共同でアルバムを作成している(坂本はほんの数曲にかかわっただけだが)。知らないひとが多いと思うので、ここで紹介する。

エイジアン・ゲイムス

エイジアン・ゲイムス

あとむかしは「HAIKU」という曲を共演した動画がYouTubeに載っていたが、こちらは削除されている。「HAIKU」は文字通り、「ズダダダダッ、ズダダダズダダ、ズダダダダッ」というリズムにもとづいた即興演奏。