「SMのSはサービスのS。Mはわがまま」

心神耗弱状態でアパートの階段から転落して頭蓋骨骨折と脳挫傷で死にそうになってから、今日で1年になる。この1年間にわたって自分がいかに「なにもしてない」のか、自虐風味たっぷりでお届けしようと思ったが、書くほうも読むほうも不快にしかならないのは目に見えているので、やはりやめる。しかし「自己否定(そんな世の中を虚ろにするような反抗的なパワーは私にはない)」くらいのことは言わせてほしい。あ、はやくも暗くなってきた。そそくさと話題を変える。
法廷で独自の「SM」論披露 懲役14年の監禁皇子
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071019/trl0710191018004-n1.htm

 これまでの公判では、被害者の女性とはSM行為をしただけで「相手が求めてきた」と供述し、傷害罪には当たらないと強調。その上で「SMのSはサービスのS。Mはわがまま」などと、法廷で独自の“SM論”を展開し、高橋徹裁判長に供述を遮られる場面もあった。
(略)
 小林被告は、被害者を「被害者と称する人」と表現してうそつき呼ばわり。各被害者に対して「何を言っても許されると思っている」「さも悲劇のヒロインになりたがっている」「ちょっとオツムが弱いところがある」などと、侮蔑の言葉を投げつけた。
(略)
 関係者によると、小林被告は東京拘置所の独居房で、SM関係の本などを読んで過ごすこともあったという。「裁判官にSMのことをよく理解してもらうための参考」だそうだ。

この「監禁皇子」被告はもしかしたら「SM関係の本」として、ドゥルーズの『マゾッホとサド』でも読んだのだろうか。読んだからといって何かが許されるわけではないのだが、ドゥルーズのロジックから自分に都合のいいところを抜き出して独自の「SM論」をでっち上げた気がしてならない。

 マゾヒスト的自我の破壊は、表面的なものであるにすぎない。みずからごく弱々しいものだと告白する自我の背後に、驚くべき嘲笑が、ユーモアが、したたかな反抗が、勝利が身を隠していることだろう。自我の弱々しさは、マゾヒストが仕掛けた罠であり、その罠が、女を振りあてられた機能の理想的な点へと導くべきものなのだ。
ジル・ドゥルーズマゾッホとサド』(蓮實重彦訳)

これはこれで不快な内容になってしまった。申し訳ない。

マゾッホとサド (晶文社クラシックス)

マゾッホとサド (晶文社クラシックス)