「白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃」

あなたは「ロマン派の音楽いっさい」、「刈った干し草の匂い」、「精製していない塩」、「白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃」がお好きだろうか。オレは「刈った干し草の匂い」と「精製していない塩」はわりと好きだが、「ロマン派の音楽」は好き嫌いが激しい。そして「白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃」にいたっては、何のことだか判らない。そもそも「樹墻(じゅしょう)」なる言葉は少なくともオレが持っている版では、『広辞苑』にも『新明解国語辞典』にも『大辞林』にも載っていない。
しかし交通事故で世を去った同性愛者のフランスの思想家が、1975年に発刊した倒錯的な構成を持つ自叙伝でこれらを好むのを明言し、『レトリック感覚』がそれなりのベストセラーになった日本の言語学者が、1979年にこのような日本語に翻訳したのはまぎれのない事実なのである。
この「白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃」は果たして何のことなのか、しばらくオレを悩ませることになった。しかし原著を買い求めることによって、この疑問は立ちどころに解消した。いま原著が手元にないので、原文を示すことはできないのだが、「作者の死」という小論文で1960年代の知的世界に大きな影響を与えた美食家は、単に「露地栽培した桃」が好きだと言っているだけなのだ。中級者向けの仏和辞書をひもとけば、ちゃんとそのような訳語が載っている。
ではなぜ『レトリック感覚』の著者はこんな奇妙な翻訳をものにしてしまったのか。答えは簡単で、フランス文学にかかわる者の多くが愛用している仏仏辞典、"Petit Robert"の説明文をそっくりそのまま直訳しているからである。おそらくこの訳者には、「いまさら仏和辞典に頼るのは恥ずかしい」といったプライドがあったのではないか。
以上、はてなブックマークでちょっと話題になった翻訳者のあるべき姿とは - 両世界日誌を読んで思い出したので、ふと書きたくなった。
ところでこの本は1997年に新装版が出ているわけだが、この「白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃」は改訳されているのだろうか。
Le Nouveau Petit Robert: Dictionnaire De LA Langue Francaise (Collection Dictionnaires Le Robert/Seuil)

Le Nouveau Petit Robert: Dictionnaire De LA Langue Francaise (Collection Dictionnaires Le Robert/Seuil)