作家の孫

安吾マガジン

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安吾本人の作品や中上健次安吾論の再録が多かった(物故した作家のムックは、どうしてもそういう内容になりがちだが)ので立ち読みですませたが、巻頭の町田康坂口綱男安吾の長男)の対談が面白かった。
何しろ自分が2歳になる前に世を去ったので、自分の父としての「炳五」と高名な作家としての「安吾」が綱男氏のなかでは結び付かず、「太宰と安吾を読み較べたけど、太宰のほうが面白かった」といって母親に怒られたことがあるとか(「それはテレビでビートルズを観たショーン・レノンが、『パパは本当にビートルズだったの』と言ったようなものですね」と町田康)。ところが自分の娘、すなわち安吾の孫は「家に資料がたくさんあるから」という身も蓋もない理由で安吾で卒論を書いたとの由。ここで町田康は「それは娘さん本人よりも、指導教官のほうが大変な思いをしたんじゃないんですか」と切り返しているのだが、そうかもしれない。いくら教官が「この解釈はおかしい」と指摘しても、娘に「実家にある一次資料にもとづいてるんですけど」と反論されたら、ひとたまりもない。
夏目房之介をはじめとして、著名な文学者の息子や孫として生まれたばかりに、プレッシャーに苦しめられた例は多い。しかしオレの知人も指摘していたが、さらに苦労するのは彼らを担当した国語教師かもしれない。たとえば生没年からすれば、小林秀雄の孫はオレよりも少し年上で、中学生や高校生のころは、まだ秀雄が存命中だった可能性が高い。これでは現代国語の教師はやりづらいのではないか。いくら教師が「無常といふ事」について熱弁を振るっても、生意気盛りの高校生から「爺ちゃんは『あのエッセイは誤読ばかりされている』と嘆いていました」なんて言われたら(そうした事実があったわけではなく、あくまでもオレの空想)、その時点でどうしようもない。
今日の日記は「文学のふるさと」ならぬ「ブログのふるさと」なので、これといった教訓もモラルもなくプツンとちょん切られる。