「へんな右翼が出て来たと思ったよ」

何でも見てやろう (講談社文庫)

何でも見てやろう (講談社文庫)

追悼記念というわけではないが、「これくらいは読んでおいたほうがいいだろう」と読み始める。440ページ中、180ページまで読み進む。まずはこの紀行文が1959年から1960年にかけての旅を記したことに驚く。すると大岡昇平の『ザルツブルクの小枝』(これが大岡作品でいちばん好きかもしれない)とほぼ同時期ということになる。もっとあとの時代の体験記だと思い込んでいた。アメリカの政府や財団の留学生制度を利用した点も同じである。
それにしては『何でも見てやろう』が描くアメリカ、ヨーロッパと『ザルツブルクの小枝』が描くそれではだいぶ肌合いが異なるが、これは文学者としての資質よりもむしろ、年齢差のためだと想像する。40代もなかばになってからの外遊と、現役の大学院生の外遊では、見えてくる光景が違ってくるものだ。
それよりも1971年版のあとがきに、見すごせない一節があったので引用する。

 後年、「ベ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)の運動をやり出したとき、運動のなか知己になった人たち(その人たちは「左翼」と呼ばれる人たちだった)が、『何でも見てやろう』が世に出たときのことを思い返して、「へんな右翼が出て来たと思ったよ」と異口同音に言った。そう言われたときにも、私は、なるほど、と思った。私の政治へのかかわりも、規格外れだったのだろう。いや、規格を外れるというよりは、規格をぶちこわすかたちで始まったのだろう。既成の「左翼」とか「右翼」とかいうワク組みをぶちこわすことが、私にとって必要だったにちがいない。言うまでもないことだが、たとえば、私の「ベ平連」の活動は『何でも見てやろう』とあきらかにつながっている。『何でも見てやろう』の旅に出かけていなかったとしたら、私はそうした反戦運動へのかかわりを始めていなかったにちがいない。

前述のようにまだ半分も読み終えていないオレは、なぜ小田実が「左翼」から「へんな右翼」だと思われたのか、充分には判らない。ただし猿゛虎゛日記 - クレ上げ当選を中心におこなわれている議論や検証の補助線になるかもしれない。少なくとも小田本人の自己認識では自分は右翼でも左翼でもなく、むしろそうした枠組みを解体しようとしていたのを自著で明言していたのである。