サヨ、カスラック、マスゴミ批判で一丁上がり!

1984年当時の大塚英志は「本当のライバルは浅田彰」だと思いつつもエロ本のコラムを書くという、いささか屈折した毎日を送っていた。そんなある日、彼はミニコミ誌に吉本隆明に関する(おそらくは批判的な)文章を発表する。なぜそんなことをしたかといえば、吉本を茶化す文章を奇妙に喜ぶ出版関係者が少なくないのを知っていたからだ。大塚のこの戦略は功を奏し、蓮實重彦小林信彦から言及される。その後、思想関係の文章の依頼が陸続と舞い込むというもっとも期待していたことは起こらなかったが、それでも何となく彼らと同等になった気分になったそうである(以上、高田理惠子『グロテスクな教養』より)。
いまさらこんな古い時代(オレにとっては少しも「古い時代」ではないのだが、いまの現役の大学生には、60年安保と同じくらい「古い時代」に思えるのだろう)の話を紹介するのは、こうした光景は昨今のネット界隈でも見られるからだ。たとえば「左翼」と「JASRAC」と「マスコミ」の3点セット。これらを「サヨ」、「カスラック」、「マスゴミ」に置換してアジビラまがいの文章を書いている手合いからは、確固たる思想信条は感じられない。あわよくばアルファブロガーから好意的に言及されたり、個人ニュースサイトに紹介されたり、はてなブックマーク人気エントリーになればいいという、浅ましい欲望しか感じられない。
大塚は自分の過去を「はしたない」「今となっては赤面するしかない」と自省し、高田はそうした姿勢を「さすがに在野の書き手だけあって正直である」と評価している。しかしいま、カスラック批判やマスゴミ批判を憑り付かれたように書いているひとたちは、そんな自分を「はしたない」と将来、思うのだろうか。