「英語さえ喋れれば世界中で不自由はない」

先生とわたし

先生とわたし

雑誌掲載時に通読したのだが、やはり単行本も手にしておきたくなった。アマゾン側のミスかもしれないが、帯がついていないぞ、これ。帯がないとどんな内容なのか、まったく見当が付かない内容なので、前評判を知らないひとが店頭で見ても興味を持たないと思うのだが。
初読時より印象に残った一節を引用する。

 国際学会とか、英語圏の作家をめぐるシンポジウムというものに参加していると、流暢な英語を駆使はするものの、いつまでも他人を押しのけて内容空疎な質問ばかりしかけてくる輩というのが、かならず客席に混じっているものである。英語さえ喋れれば世界中で不自由はないとでもいわんばかりに、イタリア語や中国語で話されている学会でも、専門知識の修練もない癖に、平気で英語で質問を仕掛けてくる。一方、その専門において深い思慮と経歴をもちながらも、英語を喋るのに馴れていないだけという理由から、つい発言を躊躇してしまう人物というのが、日本にも、イタリアにも、中国にも間違いなく存在している。バルトやベンヤミンをバース、ベンジャミンと平然と呼んで早口の英語で捲くし立てる、日本人や韓国人の研究家を見るたびに、わたしは荒涼とした気持ちを抱いてきた。しかしこうした手合いが急速に増加しているのが、今日の人文科学の学会の趨勢である。

これはアカデミズムにかぎった話ではない。ただ編集者としての経験が長いというだけで、人文科学系のディシプリンを受けることなくカルチャー系の書籍を手掛ける人物に対しても、荒涼たる気持ちを抱かざるをえない。文学や音楽など、所詮は「趣味」の世界なのだから、耳学問だけでことたれりとでも思っているのであろうか。これは特定の人物に対する誹謗中傷ではない。「こうした手合いが急速に増加しているのが、今日の出版界の趨勢である」と言いたいだけだ。
オレだってプログラミングやサーバ管理に関する充分な知識を持っていないくせにLinuxの本を書くという、神をも恐れぬ暴挙に出てしまったわけだが。しかしそうしたとき、きわめてジェントルな口調で自著の誤りの多くを指摘する友人がいるのはありがたい。