かつこよすぎる中村とうよう

青土社はかつて『ユリイカ』や『現代思想』と同じ判型(もちろん執筆陣も似通っている)の『音楽の手帖』という不定期刊行物を出していた。オレの手元にはいま、1979年に発行された「ベートーヴェン」という号がある。ここに中村とうようが「ロール・オーバー・ベートーベン」と題した文章を寄せている(別の媒体に発表した文章の再録のようだが)。彼は冒頭近くで「最初に告白しておくと、ぼくはベートーベンも、その音楽も知らないのである」と告白しながら、ベートーベンを「十九世紀ヨーロッパというものが感じさせるオゾマシサの象徴」と位置づけ、そのあとはまさしく耳学問としかいいようがない知識のがらくたを寄せ集めながら、「ベートーヴェン的なもの」(だと中村とうようが思い込んでいるもの)を批判しつつ、

 ベートーベン自身が実際にそのような人物像に合致する人であったかどうかは、このさい問題ではない。《人民ノ智識ヲ高尚ニ》する《純正ナル歌楽》、《国民に高等の思想を渙発せしむる》《高等の音楽》の偶像的表象としてのベートーベンをぼくは拒否し、チャック・ベリービートルズを支持する。だが、ぼくには、一緒に踊りましょうとベートーベンに呼びかけるチャックの寛大さはないから、むしろ「ベートーベンをぶっ飛ばせ」と言いたいのだ。
 いまわれわれに必要なのは伊沢や神津がしりぞけた《蛮楽》であり《淫楽》である。もちろんチャック・ベリービートルズもその中に入る。そして、マイルス・デヴィスであり、美空ひばりであり、イトゥリの森のバベンゼレ・ピグミーの歌なのである。

と格好よく文章を結んでいる。ちなみに「伊沢」とは「音楽取調掛」で有名な伊沢修二で、「神津」はその助手。
この文章を最初に読んだのは20歳くらいだったと記憶するが、あまりのくだらなさに呆れ果てた。中村とうようは「ピアノ協奏曲第4番」の第1楽章や、「バガテル集」(グレン・グールドの演奏が素晴らしい!)を聴いたことがあるのだろうか。もしあるのならベートーヴェンが押し付けがましさのない柔らかさやロココ的な優美さを兼ね備えた音楽家であり、決して「十九世紀ヨーロッパというものが感じさせるオゾマシサの象徴」ではないことが理解できるはずだ。
などと書くと中村とうようは「オレはベートーヴェンの作品ではなく、ベートーヴェンが果たして来た社会的役割を批判したいのだ」と反論するかもしれないが、それにしてもベートーヴェンをほとんど聴いたことがないくせによくぞここまで書けたものだと拍手を送らざるをえない。
なおこの文章は中村とうようを批判するために書いたのではない。「特定の芸術家(あるいは芸術家グループ)を全面否定するのであれば、通俗的なイメージにもたれかからず、まずは彼らの作品とじかに接すべきである。そうしないと論旨は迷走し、専門家の失笑を買い、無知を露呈するばかりだ」と痛感させられる出来事が今日、あったからだ。そしてこんなときに取って付けたようにその著作をあまり読んでいない中村とうようを持ち出したオレもまた、同じことをしているのだと気付いてしまった。
われながら心楽しくない文章を書いてしまったので、口直しに同じ号に掲載されている谷川俊太郎の「ベートーベン」を引用する。

ちびだつた
金はなかつた
かつこわるかつた
つんぼになつた
女にふられた
かつこわるかつた
遺書を書いた
死ななかつた
かつこわるかつた
さんざんだつた
ひどいもんだつた
なんともかつこわるい運命だつた


かつこよすぎるカラヤン

カラヤン」には読者諸兄のお好み(お嫌い)の固有名詞を代入していただきたい。