自分語り、ふたたび

昨日、「ネットにおける自分語り」について論じたところ、静かだけれども好意的な反応を引き起こした(ウェブだろうが活字だろうが、「静かだけれども好意的な反応」が書き手としてはいちばん嬉しいものである)。そして知人から、「気に入らない文章やつまらない文章を批判するための便利な紋切型として、『自分語り』が使われているのではないか。書かれている内容が面白ければ、それは『自分語り』として批判されない」と指摘された。なるほど、この指摘に一理ある。オレが今年になってから書いた記事で言えば、「だいがくいんのきょうふ」「烈士とアルバイト」は、最後のパラグラフで取って付けたように一般論を述べているのを除けば、ひたすら自分が経験したことしか書いていないが、SBM(おもにはてなブックマーク)で「静かだけれども好意的な反応」があった(大学院のほうは、それほど「静か」でもなかったが)。しかしこれはオレが書いている「事実」が一般のひとが知る機会が少ない珍しいものだったから評価されたのだろう。
この問題はこれからも折りにつけ考えてたいと思っている。というか、自分が論じるべきテーマ、自分だからこそ論じられるテーマをようやくつかまえた、という手応えを少しばかり感じている。