パトリオティズム的妄言

センバツで新潟代表の日本文理大阪桐蔭に負けてしまった。まあ、どうせ負けるだろうと思っていたから、あまり悔しくはないのだが。こうした新潟人の特性を坂口安吾「諦めている子供たち」と呼んだが、じつに的確である。
ところでここ数日、管理教育に関する話題がはてな上の一部で盛り上がっているが、オレにとってはリアリティーのないテーマである。オレが中学・高校をすごしたのは1983年から1989年、すなわち「行き過ぎた管理教育」が新聞やテレビで大きく取り上げられた時代だが、どうにも外国の出来事にしか思えなかった。やたらと歴史だけはある公立中堅進学校のつねなのかもしれないが、オレの高校はちょっと大袈裟に言えば「警察沙汰になるようなことでなければ、何をやってもかまわない」といったちゃらんぽらんなムードが漂っており、一部の体育教師を除けば学校側から理不尽な目に合わされた記憶がない。中学もまた同様。オレの母校だけではなく、「あそこは校則が厳しくて息苦しい」といった評判の立った高校は新潟ではほとんどなかった。いつごろの記事だったか忘れたが、新潟は校則で男子生徒の丸刈りを定めている公立校がゼロだと新聞で読んだ記憶がある。また大学進学率の低さも(一時は全国でも最低レベルに達したそうだ)、新潟の中等教育の「ちゃらんぽらんさ」を示す一例と言えよう。
ここからが本題なのだが、新潟県はやたらと漫画家を輩出している県である。新潟出身のオレにもこの理由はいまひとつ判らなかったのだが、「ちゃらんぽらんな中等教育」が一因になっているのかもしれない。ごりごりの管理教育が徹底された高校からは、漫画家が生まれそうにないからだ。また安吾のいう「新潟は生えぬきの港町で色町だった。つまり遊ぶ町だ。絃歌のさざめきを古来イノチにしていたような町だ」や「屋外運動など不用というのは新潟市民の諦観と同じように風土的、気質的な考え方で、つまり女子の性行をもって男子に当てはめ、男の子が屋外で泥んこに遊ぶようなのは悪事だとすら考え、屋外で遊びたがる子は末おそろしき子だぐらいに考える気風」も漫画文化との親和性が高そうだが、これだと新潟市内に話がかぎられてくるのでうまくない。
あ、本題のほうが短くなった。まあ、いいや。今日はこの辺で。