キャラクター小説としての時代小説

今日も今日とて『ゲーム的リアリズムの誕生』を読み進める。第1章のBパートまで読んだ時点で大きな疑問に捉われたので、メモしておく。
AERA」には養老孟司池田清彦、吉岡忍による「深読み斜め読み拾い読み」という鼎談が連載されており、先週号では時代小説が取り上げられている。

池田 時代小説ってとにかく長いよね。なんでかな?
養老 一種のファンタジー小説なんだよ。物語の中に世界を構築するから、いったんつくっちまったそれを捨てるのが読者も著者も大変。だから全集みたいにいくらでも続いちゃうんだよね。
池田 一種のロールプレイング・ゲームだな。皮肉な言い方をすれば、いったん世界をつくっちゃえば、あとはその枠の中でコロコロ転がしていけばいい。作家としてみれば、ちょっとやそっとボケたって、最後は時代小説を書けばいいってね(笑)。

こうした特徴はライトノベルにも当てはまらないだろうか。東浩紀大塚英志を議論を引き継ぐかたちでライトノベルを「キャラクター小説」と定義し、共有されたキャラクターのデータベースのなかから物語が生み出されるとしている。この「キャラクターのデータベース」は時代小説的ではある。われわれは徳川家康服部半蔵が何者であるかについて、それなりに情報を共有している。それゆえに時代小説(および一部の歴史小説)では近代文学自然主義的リアリズム)における「人物造形」を省力化できる。また池波正太郎の『剣客商売』シリーズは、キャラクターの設定がまず第一にあり、あとはその設定に従ってオートマティックに物語がつむがれていく印象が強い。ライトノベルに近い「キャラ優先」の発想で創作されているのだ。こうした時代小説は多いだろう。
東浩紀はキャラクター小説を、日本社会がポストモダン化したあとに出現した特異な形式としている。しかし時代小説を視野に入れると、自然主義的リアリズムに対するアンチテーゼとしてのキャラクター小説の流れが日本文学にはつねに存在しており、かつては時代小説として、いまではライトノベルとしてそれが現れている、と整理できなくもない。ライトノベルと時代小説の類似が偶然の一致にすぎないのか、何らかの必然性を持っているのかは、簡単には断言できないが。