「韓国にも映画はあるんですか」
ところで「先生とわたし」には、修士課程を終えた四方田犬彦がオックスフォード留学を断念し、韓国の大学の客員教授になることを決意し、恩師に事情を説明に行くシーンがある。
わたしに最初にフランス語の手解きをしてくれたある教師の反応は冷淡なものだった。「不愉快ですね。きみはてっきりM君やS君などと一緒にパリに行くものだと思っていました。韓国にも映画はあるんですか」この言葉はわたしを深く失望させた。もし先生であるならば、弟子が最初の海外渡航を、それも当時の日本では蛇蝎のように嫌われていた国への渡航を決意したときに、何らかの励ましの言葉をかけるのが本筋ではないだろうか。この教師は東大仏文では大江健三郎の1年下の学年だった。だが当時、金芝河の救援運動に関わっていた大江とは対照的に、とにかく身近で韓国なりアジアなりという言葉が口にされるのを嫌がっている様子がありありと感じられた。ああ、この人は自分の先生でも何でもないなということが、わたしにははっきりとわかった。
「わたしに最初にフランス語の手解きをしてくれたある教師」が誰なのかはどうでもいいとして(笑)、ここで韓国が「当時の日本では蛇蝎のように嫌われていた国」とされていることに注意してほしい。これは現代ではなく、1979年の話である。当時の韓国は軍事独裁政権が続いており、日本では「恐ろしい国」「何をするか判らない国」と思われていた(ようである)。「ようである」と自信がなさそうに付け加えたのは、日本のマスコミが軍事独裁政権時代の韓国をどのように表象していたか、きちんとした資料を持っていないからである(なお母親に「むかしの韓国にどんなイメージを持っていたか」と質問したところ、「李承晩ライン……」というほとんど答えになっていない答えしか返ってこなかった)。
ともあれソウルオリンピック(1988年)あたりから日本人の対韓国イメージは好転し、それに反比例するかのように対北朝鮮イメージは悪化し*1、好転しすぎた対韓国イメージへのバックラッシュとして今日の「嫌韓」があるというのがオレの整理なのだが、間違っていないだろうか。
ちなみにサブカルチャーの世界で「恐ろしい国」だったころの韓国を描いた作品としては、漫画なら大友克洋/矢作俊彦『気分はもう戦争』(1980年)、音楽ならYMO「京城音楽」(1981年)がある。「京城音楽」については、YMOファンの韓国人が書いた下のページが参考になる。
http://www.seoul-music.com/seoul_music.html