入院記――拘束

昨今の私生活にはこれといった変化がないので、気が向いたら入院中の経験談をランダムに書き連ねることにする。まずは拘束の話から。
入院直後、オレが四肢を拘束されたのは前にも書いたはずだ。これは下手に身体を動かして再出血するのを防ぐための措置である。何しろオレは入院直後、一時的な錯乱状態にあり、病室内で大立ち回りを演じていたそうだから、こんな措置を受けても仕方がない。
しかし上のような事情を正確に把握できていなかったころのオレは、なぜ自分がこのような目を受けるのか理解できず、主治医や看護士に拘束を解いてくれるように哀願した。怒った。絶望した。暴れられるものなら、暴れようかと思った(しかしできることと言ったら、首を左右にゆるゆると動かすくらいだ)。どうせしばらくベッドの上から動けないのだから、拘束されていても大差ないではないかと言ったひとがいるが、四肢の自由が利かない状態が延々と続き、それがいつ終わるのか判らないのは、精神的に激しい苦痛をもたらす。おまけに意識ははっきりしているのだから、始末に終えない(せめて気絶でもしていたかった)。
のちに日本社会党(当時)委員長となる浅沼稲次郎は大正時代、不穏分子として市ヶ谷監獄に投獄された。そこで浅沼は少年犯が過酷な体罰を受けているのを知り、看守に抗議する。おかげで彼は凄惨なリンチを受け、おまけに2週間にわたって後手に頑丈な皮手錠をはめられる。食事も排泄後の始末もひとりではできず、後手に縛られているせいで横たわって熟睡するのもままならない彼は、しまいに「おい、俺は身体の前後がわからなくなった」と悲鳴を上げる。このときなどに受けた精神的なダメージがもとで、「温厚なヌマさん」は2度にわたって発狂する(以上、沢木耕太郎『テロルの決算』より)。手足の拘束とは、そこまでひとの神経を蝕むのだ。人類史上、誰が最初に拷問の手段として拘束を思いついたのかは知らないが、そいつは天才である。
もちろんオレが受けた拘束は純然たる医療行為であり、オレの命を救うために必要なものであった。医師や看護士に恨みを抱くいわれはない。しかし思い出すたびに、いささか恨みがましい気持ちになるのも避けられない。どんな病気になっても、あれだけは2度と絶対に経験したくない。