通りと道

『日本語の森を歩いて』(ISBN:4061498002)によればフランス語では「通り」と「道」はきちんと区別されており*1、長距離を移動するために人工的に作られたものが前者、建物と建物のあいだになかば自然発生的に生まれたのが後者なのだそうだ。
この区別はじつは日本でも当てはまる。オレはむかし環七通りや環八通りの近くに住んでいたのだが、これらの通りを歩くときは何とも索漠とした気持ちを味わった。自動車による長距離移動のために作られた「通り」は、徒歩以外に移動の手段を持たない者には冷たい。ほっと一息つける店のひとつもありはしないのだから。「通り」を歩くのがいやで、わざと回り「道」をしたこともある。
東京の繁華街を「通り」の街か、「道」の街かで分類するのも面白いだろう。銀座や六本木は明白に「通り」の街で、ゆえにこれらの街とオレの相性は合わない。新宿や渋谷はいっけん「通り」の街のようだが、少し歩くと「道」の町だと気付かされる。そして下北沢、西荻窪、江古田といったあたりはまごうかたなき「道」の町であり、オレはこれらを愛する。西荻窪に東京外環自動車道ができるのに地元住民が反対しているのも、下北沢の再開発計画に文化人やミュージシャンが反撥しているのも、「通り」に「道」を侵食されたくないとの思いのあらわれだろう。そして「郊外」がどこか殺伐としているのは、そこには「通り」しかなく、「道」がないからだ。

*1:前者が"boulevard"、後者が"rue"、だったかな。当該箇所が見当たらないので、うろ覚え。