盛り上がらない懐メロ

今日は予告どおり、JASRACのシンポジウムについて書くつもりだったのだが、久しぶりにカラオケに行ったら、まったく別のことを書きたくなった。

あがた森魚「赤色エレジー」(1972年)、石原裕次郎嵐を呼ぶ男」(1958年)、渡辺はま子「蘇州夜曲」(1940年)は、オレがカラオケに行くとかならず歌いたくなる「懐メロ」である。しかし実際に歌うことは、あまりない。これらの曲はいずれも同じフレーズを延々と繰り返す、ある意味ではミニマルな楽曲であり、「Aメロ→Bメロ→サビ」という構造になっていない。そのため、歌っているほうも聴いているほうも、途中からちょっと白けてしまうからだ。

たった3曲のサンプルだけでは断定的なことは言えないが、英米流の「ポップス」が市民権を得る前の日本の歌謡曲では、「Aメロ→Bメロ→サビ」という構造が支配的ではなかったのではないか。しかし1970年代からミニマルな構造を持っている歌謡曲は少しずつすがたを消し、1980年代には「Aメロ→Bメロ→サビ」が当たり前の文法になった。この構造に当て嵌まらない曲は、どれだけ「いい曲」であってもそれほどヒットしない。いわゆるダンスミュージックのよう「サビ」を必要としない音楽であっても、オーバーグラウンドでヒットする曲にはきちんとした「サビ」がある。「サビ」を軸にして日本のポピュラー音楽史を捉えなおすと、それなりに面白い図式が見えてくるかもしれない。