レズビアンをめぐるふたつの相

「男性はレズビアンを主人公にしたポルノを、単に『裸の女の子はたくさん出てきたほうが楽しいじゃん』という理由だけで愛好している。それに対して女性は、『現実の性関係の忌避』といった心理的な屈折からゲイを主人公にしたポルノを愛好することが多い。そしてここにこそ、男女の性意識の違いがある」といったことを、かつて鈴木晶が『イマーゴ』で語っていた。これはこれで正しい認識だとは思うが(女性の心理的な屈折を「現実の性関係の忌避」で片付けられるかどうかはやや疑問だが)、『マリア様がみてる』に夢中になっている男性読者は、古典的な「レズビアンものを愛好する男性」の範疇には収まらないのではないか(そもそも「マリみて」はポルノどころか、狭義の恋愛小説ですらないが、その辺の問題はここでは棚に上げる)。

彼らは現実のジェンダーを保持したまま、祐巳ちゃんなり祥子さまなりと性交したいとは、おそらくは望んでいない。むしろ自分自身が私立リリアン女学園の生徒となって、祐巳ちゃんと祥子さまの恋愛とも言えない淡い恋愛を見守りたいと望んでいるのではなかろうか。さらには自分自身が祐巳ちゃん(あるいは祥子さま)になり、彼女の視点から祥子さま(祐巳ちゃん)と触れ合いたいと望んでいるのではなかろうか。