オタクとパクリ

たとえばアニメを観て、そこに過去の名作からの「引用」や「借用」を発見して悦に入るのは、あくまでもオタク・エリート的な鑑賞法ではないだろうか。庶民派オタク(というのもおかしな表現だが)はそこまで難しいことは考えずに、素直に物語世界に没入している気がする。

TBSの「Pooh!」という「トゥナイト」系の深夜番組で、オタクを「ピュアなひと」と表現していたが、たしかに彼らは「作者」や「作品」に対して非常にピュアな幻想を抱いている。だからこそ「パクリ」を過剰に糾弾するのだし、みずからが個人サイトを開設するとなると、サイト内のコンテンツの著作権について、強迫神経症的な断り書きを入れるのだろう。

岡田斗司夫にしても東浩紀にしても、彼らのオタク論はあくまでもオタク・エリートを分析対象としている。そして彼ら自身も、いろいろな意味でエリート層に属している。「作者の死」や「間テクスト性」といったタームには興味を示さず、ひたすらピュアに物語を享受して泣いたり笑ったりしている庶民派オタクの声が、そこには反映されていないのではないか。既存のオタク論が取り逃がしているのは、「石川梨華はウンコをしない」と、なかば本気で信じているようなオタクたちの声ではあるまいか。

つまりは何を言いたいかというと、「アニメや文学なんて、所詮は引用の織物だよーん」だなんて言っているのは、オタクのなかでも特にリテラシーの高い連中であって、そういう連中の声を「オタク全体の声」として論を進めるのは危険なのではないかな、と