ドシロート

東浩紀はてなダイアリーユーザになったことは、この日記を読んでいるひとならもうご存じだと思うが、今日更新された彼のテクストのなかに、次のような一節があった。


昨年、突然のようにblogが騒がれるようになったが、同時にすでにあちこちで言われていたように、日本の日記システムにもblogと同じくすぐれたものは数多く存在した。はてなはその代表格である。システムのことなど分からないし、分かりたくもないという多くのひとたち(情報系の議論ではどうもそういうひとたちの視線が無視されがちだ)にとって、これはもしかしてblogより便利なシステムかもしれない。
ここでのポイントはもちろん、括弧内の「情報系の議論ではどうもそういうひとたちの視線が無視されがちだ」というセンテンス。これは内田さんが少し前に、

もちろん、こんな仕事はコンピュータが分かっている人にとっては「朝飯前」のことであろうから、「どうして、そんなことに20万も・・・」と絶句されるであろうが、それは私がレヴィナスユダヤ教論を「朝飯前」にコーヒー片手に訳せるのと同じことで、「専門家にとってはたいした手間ではないが、できない人には永遠にできない」種類の仕事というのがあるのである。

しかるに、ことコンピュータになると「ある程度身銭を切ってコンピュータのことを習得しようとしない人間には参入してもらいたくない」ということを広言する人間が多い(というか、ほとんど全員がそう言う)。

私は「ほとんど全員がそう言う」ことは原則として信用しない。
と書いていたのと、どこかしら呼応する。

コンピュータそのものに詳しいからといって、その人間が「コンピュータ的なるもの」について深い洞察を持っているとはかぎらない。逆にコンピュータにはまるで無知なユーザが、直観的に「コンピュータ的なるもの」の特性を理解することもありうる(と思う)。これはフランス語を操る能力と、フランス文学を解釈する能力がかならずしもシンクロしないのと同じことだ。

にもかかわらずコンピュータに関しては、「知識の量と知見の深さは一致する」と信憑する者が少なくない。コンピュータを「文化」として語ろうとする論客(のごく一部)に付きまとう尊大さは、この信憑に由来するのではないか。