「かわいい」再考・日本編

昨日から「かわいい」が気になっている。四方田犬彦『「かわいい」論』(ISBN:4480062815)をふたたび参照するなら、彼は語り手が「かわいいもの」を列挙する太宰治「女生徒」を、「少女独白小説の嚆矢」と位置づけ、『斜陽』や「皮膚と心」の祖形としている。
ここで太宰ファンであるオレが気になるのは、晩年の代表作である『斜陽』の語り手も、「かわいいもの」への偏愛を捨て切れないでいることだ。

「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
 とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
 と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
 とおっしゃった。
 ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。(強調は引用者による)

たしかに排泄しているときの人間はまったく無防備な状態にあり、思わず守ってやりたくなるようなかわいさがある。
さらに彼女は「アカ」の友人からレーニンの本を読むように薦められたが、結局は読まず、「あなたは、更級日記の少女なのね。もう、何を言っても仕方が無い」と言われる。しかしローザ・ルクセンブルクは愛読している(「ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしている」)。ロシア革命を成し遂げた鋭利な理論家であり、立派な廟まで作られたレーニンは、あまりかわいくない。それに対して虐殺され、半年ものあいだ遺体が放置されたローザは「守ってやりたくなるようなかわいさ」に満ちている。
また太宰はほかの作品で「革命」を「かくめい」とひらがなで表記している。ここに深い意味を見出そうとする批評家もいるが、オレは単に「かくめい」のほうが字面がかわいかったからだと考えている。
なお「女生徒」と『斜陽』の違いは前者の語り手が「かわいい」世界のなかに自足しているのに対し、後者の語り手は「かわいい」の外部に踏み出そうと決意していることだ。しかし最後に生活破綻者の恋人を「マイ・コメジアン」と所有格で呼んで物語が終わるあたり、彼女は結局は外部に到達できなかったのではないか、とも思わせる(太宰本人の人生もそのようなものであった)。

「かわいい」再考・フランス編

さてフランス語では女性を示す名詞として、"fille"と"femme"がある。"fille"はあくまでも未熟な女性であり、"femme"は成熟した女性を意味する。そして"fille"と"femme"の中間領域を指す言葉がない。日本の文化は、なぜかこの中間領域にある女性を愛でる伝統がある。現代的な例ではアイドル歌手やアニメの美少女キャラクターが挙げられるだろう。「モーニング娘。」や「文化系女子」といったネーミングに顕著なように、こうした中間領域にある女性には「娘」やら「少女」やら「女子」やら「女の子」と多彩な語彙が用意されている。プルーストが「幼い少女や非常に若い女性」を指す言葉として"mousmé"に飛び付いたのは、フロベール風に言えばこれこそが"mot juste"だと感じられたからではないのだろうか。