おいらは自然主義的リアリズム

『巨船ベラス・レトラス』(ISBN:4163256903)読了。面白くないはずがないが、面白かった。しかしこの本に関するちゃんとした感想を書くには、『ゲーム的リアリズムの誕生』(ISBN:4061498835)も読まなければ、と思う。関係ないじゃん! というひとがいるかもしれないが、『巨船』は「現代文学はなぜ衰退したのか」をかなり大真面目に考察している小説で、『ゲーム的リアリズムの誕生』は『巨船』の登場人物からはほとんど無視されている文学ジャンルであるライトノベルに関する長篇批評であり、おまけに筒井康隆に捧げられているのだ(東浩紀筒井康隆にこの本を捧げた経緯は、「あとがき」を参照)。この2冊がほぼ同じ日に出版されたことに、ユング的というか何というか、とにかくそのたぐいの共時性を見出したくなっても悪いことではないだろう。

やつらはゲーム的リアリズム

そんなわけで『ゲーム的』を読み始めているだが、思い出すのは11年前、清涼院流水『コズミック』を読んだときの驚きと戸惑いと怒りである。参考までに当時書いた短い書評を紹介する。配色がいまにも増してどうかしているのはお見逃しいただきたい。
http://yskszk.org/cosmic.html
いま高校生や大学生のライトノベル読者はリアルタイムでは知らないだろうが、この長篇が出版されたときの推理小説ファンからの否定的な反応には相当なものがあった。ただ単につまらない本だったら優雅に無視すればいいだけなのに、多くの読者は優雅に振る舞えず、個人サイトやメーリングリストで怒りを露わにした。しかし一方ではまだ18歳前後の、それほど読書経験が豊富とは思えない読者からは「すごい小説を読んだ」という肯定的な反応が寄せられ、オレの驚きと戸惑いと怒りはいや増すことになった。この手の「世代や知識の違いにもとづく格差」はいつの時代、どんなジャンルにでも見られる現象だが、『コズミック』に関しては、何かが決定的に変質してしまったとの思いが強かった。
いまにして思えば、徹頭徹尾「ゲーム的リアリズム」の論理に貫かれた小説を読むのがこれがはじめてだったから、どう対応していいのか判らなかった、と整理できるのだろうな。整理できたからといって、『コズミック』への評価が好転したわけではまったくないのだが。