「正しい表記」に意味はあるか?

ピーター・バラカンさんらに催涙スプレー 東京の教会
http://www.asahi.com/national/update/1208/TKY200712080208.html
ひどいことをするやつがいるものだ。というのはともかく、ピーター・バラカンの名前が出てきたので、このところ気になっていたことを書く。
彼は15年ほど前に「FM Fan」で、日本人が使う英語がいかにいい加減であるかを指摘するコラムを連載していた。特にうるさかったのが固有名詞の表記。「Led Zeppelinは断じて『レッド・ツェッペリン』ではなく、『レゼプリン』だ」等々。これを読んでいた当時はなるほどなあ、と感心していたが、最近ではネイティヴ・スピーカーではない人間が、「正しい表記(発音)」にこだわる必要はないのではないか、と考えるようになってきた。「カート・コバーン」だろうが「カート・コベイン」だろうが、「クラフトワーク」だろうが「クラフトヴェルク」だろうが、カタカナ読みでは現地の人間には通じないだろう。それよりはスペルを正しく覚えて、筆談で意思を伝えたほうが合理的かもしれない。
などと書いていると特定の音楽雑誌に対する皮肉と受け止めるひとがいるかもしれないが、オレの意図はそんなところにはない。映画でも文学でも、そしてタイトルでも作者名でも、一度定着した表記を安易に変えるのは混乱をもたらすだけではないのか、と言いたいのだ。最近では古典文学の新訳がブームになっているが、フロベールの『感情教育』を『レデュカシオン・サンティマンタル』に改題して新訳を出しても、別の作品だと勘違いして買うやつがいるだけではないだろうか(あるいはそれが狙いなのか)。
もっともSimone de Beauvoir「シモン・デビューボ」と表記するのは論外。この場合は、「シモーヌ・ド・ボーヴォワール」という表記が定着しているし、フェミニズムについて何事かを書こうとしている者がボーヴォワールの名前を知らないのは、「顔を洗って出直してこい」としか言いようがないからだ。