死者の書

死んだ人間が書き残した書物を読むのは少しも不思議な経験ではないが(書店や図書館で当たり前のようにやっていることだ)、死んだ人間が書き残したウェブサイトを読むのには、ほんの少しの不気味さがある。これはウェブのテクストがエクリチュールともパロールとも付かない性格を持っているからだろう。ネット上の文章は何らかのメディアを介さなければ読めない。この点ではエクリチュールに近いが、きわめてリアルタイム性の強いコミュニケーションが行われている点ではパロールに似ている。
あるいは「完結」という点から見ていこう。小説や論文には「完結すること」が期待されている。それに対しておしゃべりはそうではない。むしろ完結することを恐れさえする。この意味で日記サイトはおしゃべりに近い。それはきわめて口語的な文体で書かれているからではない。「完結すること」を目標としていないからだ。「最終更新日」が記されていること、それはすなわち次に更新される日がいつかは訪れることを示している。読み手も書き手も「次に更新される日」が永遠に訪れないのを前提にして書かれている日記サイト、われわれはそうしたものを想像できない。