一人称

yomoyomoさんが「羽生世代について書かれた技術書でない読み物」として薦めていた島朗『純粋なるもの』(ISBN:4101393214)を読み始める。体裁の上では一人称なのに、登場する棋士の内面があたかも自分の体験のように語られるので、次第に登場人物の区別が付かなくなる(将棋に詳しいひとなら、ただ「森内」「佐藤」と書いてあるだけで、そのひととなりを自然に思い浮かべるのかもしれないが)。
このところ、ノンフィクションやルポルタージュにどのようなタイミングで「私」を登場するのかが気になっている。前にも書いたことだが、沢木耕太郎の『テロルの決算』は「私」を排除した三人称的な文体に終始しており、著者本人が浅沼稲次郎夫人を取材した体験を描いた「文庫版のあとがき」でようやく「私」がすがたをあらわす。しかし多くの書き手はそこまで計算高くはなく、いともあっけらかんと「私」を作中に登場させてしまう。文体や人称の問題にやたらと神経質なゲンダイブンガクをそれなりに読んできた身からすれば、これはあまりにもあっけらかんとした態度に思えるのだよ。