嗤う日本の「ギャグ漫画」

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

読了。1980年代以降のお笑い番組は「アイロニカルなポジションに立つこと(お約束を嗤う*1こと)それ自体が、視聴者があらかじめ体得しておくべき身体技法として前提されていた」と論じる第3章「パロディの終焉と純粋テレビ」を読んで、「これはギャグ漫画にも当てはまるのではないか」としばし考え込む。

竹熊健太郎は『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』で、ユーモア漫画(もしくはコメディ)とギャグ漫画の違いは、ユーモアが「人間関係を円満にする潤滑油」であるのに対し、ギャグが「人間を冷酷に観察して、常識や良識をぶちこわす」点にあると指摘している。ギャグ漫画が「ぶちこわす」のは、何も「常識や良識」だけではない。漫画というジャンル固有の「お約束」もアイロニカルな「ぶちこわし」の対象になる。世間的には「ユーモア漫画」に分類されている『のらくろ』や『サザエさん』にも、漫画の「お約束」に皮肉な目を向けた話がないわけではない。しかしこれらはあくまでもイレギュラーなものにとどまった。ひたすらアイロニカルに「お約束」を嗤いのめすギャグ漫画が市民権を得たのは、1970年代後半から1980年代であろう。このころからお笑い番組でディレクターなどの裏方がブラウン管に露出するようになり、ギャグ漫画でも担当編集者やアシスタントが「キャラ」として扱われるようになる。

ここで興味深いのは、1998年から2004年にかけて「週刊少年サンデー」に連載された『かってに改蔵』だ。この作品は漫画にありがちな「お約束」を嗤うことで成立していた。しかし「お約束」を嗤うだけなら、むかしから多くの漫画家がやっていたことだ。たとえば少年誌に連載されている学園漫画には、「主要なキャラクターは歳を取らない」という「お約束」がある。「改蔵」もこの「お約束」を踏襲しており、主人公をはじめとする多くの登場人物がそうした「お約束」をギャグの対象にしている。

しかし「改蔵」では連載後半から、「亜留美ちゃん」が準レギュラーとして定着する。彼女はほかの登場人物とは異なり、毎年きちんと進級し、初登場時は中学生だったのに、連載終了まぎわには改蔵たち(設定の上では高校2年生)の先輩になる。すなわち漫画の「お約束」を嗤っている登場人物が、ほかの登場人物による「嗤い」の対象となっているのだ。ここまでメタ言及を繰り返したギャグ漫画を、オレはほかには知らない。

そして最終話にいたって、「改蔵」の作品世界は精神を病んだヒーローとヒロインを社会復帰させるための一種の箱庭療法であったのがあきらかにされる。この最終回はそれこそ「電車男」と同じように、ネット上で「泣ける」「感動する」といった反応を呼び起こした。しかし単行本刊行時に付け加えられた「大蛇足」は最終回で得られた感動を台無しにしかねない内容だったし、「大蛇足」のあとの「大反省文」にいたっては、『かってに改蔵』全体や作者である久米田康治を、「自己批判」かつ「総括」する内容になっている。こうした自意識のありように、1967年生まれである久米田康治ならではのメンタリティーを読み込もうとするのは、それほど不自然なことではあるまい。

*1:引用者註:この本では「嘲りを込めた笑い」が、「嗤い」と呼ばれている。