ロックと美学と私

id:shinimaiくんの卒論「音楽雑誌におけるロック批評の構造――雑誌『ロッキング・オン』における渋谷陽一の美学」*1を拝受し、さっそく読む。『ロッキング・オン』≒渋谷陽一の美学においては、「自己表現」しているものはすべて「ロック」で、「切実さ」を感じさせるものはすべて「批評」になる。こうした定義(むしろ定義の放棄、あるいは定義のゆるさ)は『ロッキング・オン』を商業的な成功に導いた。しかしこの「ゆるさ」を突き詰めていけば、そもそも扱う対象を狭義のロックに限定する必要も、その対象をめぐって書かれる文章を「批評」と銘打つ必然性もないというアポリアに陥ってしまう。それゆえに狭義のロックからテクノやヒップホップに時代の主役が移り変わった1990年代になってもなお、テクノやヒップホップを「ロック」として評価しようとした『ロッキング・オン』≒渋谷陽一が「妄想型」と揶揄されるようになったという論旨(非常に大雑把なまとめで申し訳ない)。

この論文では言及されていなかったけど、『ロッキング・オン』は外部のライターに原稿を発注することがほとんどなく、「これからRO社員になろうとしているひと」「現役のRO社員」「RO社の元社員」の原稿で紙面が埋め尽くされている。これは出版社のありかたとしてはかなりいびつであって、だからこそ同社刊行の雑誌で「妄想型」の批評が蔓延したのではないだろうか。

また「妄想型」批評の蔓延は何もロック雑誌にかぎったことではない。エンターテインメント系の小説の文庫本の「解説」も同じ切り口で分析可能なのではないかと思うのだが、いまはそこまで大風呂敷を広げる気にはなれないのであった。

*1:目次はid:shinimai:20050112#p1で読める。